第58話 蕎麦の道

     

「江戸ソバリエ」誕生(七)

 

☆京の東福寺 木曾の定勝寺 江戸の常明寺 

 俳聖芭蕉翁が予言した通り、蕎麦は江戸っ子の大好きな食べ物のひとつになったことは知られる通りである。

 しかし、「その蕎麦は、いったいいつごろ生まれたのだろうか?」との問題に対しては、現在のところ明確な回答はない。

 ただ、蕎麦の歴史をちょっと齧っている人なら、(1)わが国における「蕎麦切」の初見が、織田信長が足利15代将軍義昭を追放した年に記された木曾の定勝寺文書にあることと、(2)江戸における「蕎麦切」の初見が、徳川2代将軍秀忠のころに存在していた常明寺であったことを知っている。

 そもそもが、蕎麦切はじめ麺類は粉で作るものである。そのためには、実を粉にする挽臼がなくてはならない。その挽臼は、それまでわが国にはなかったものであるが、京の東福寺を開山した円爾が石臼を宋国から持ってきたのではないかとされていることも、蕎麦史を齧っている者なら知っている。しかし、それだけでは単なる断片知識であって、東福寺円爾の石臼と定勝寺の蕎麦切はなかなか結びつかない。

☆博多の承天寺、佐賀の萬寿寺、太宰府の崇福寺 京の東福寺

 それからもうひとつ、九州の人間なら、博多の承天禅寺に「饂飩蕎麦発祥の地」の碑が建っていることは何となく知っている。「なぜ、博多が蕎麦発祥の地?」との疑問をいだきつつ、円爾は東福寺を開山する前に博多で承天寺を開いたと聞けば。「そうか! だから、承天寺に碑があるのか」と納得する。

 円爾という僧は、榮尊や湛慧らと共に宋に渡って修行した。そして北条執権3代目泰時の代に帰国し、円爾は博多に承天寺、榮尊は佐賀に萬寿寺、湛慧は太宰府に崇福寺という禅寺を創建した。その後、榮尊と湛慧は九州に残り、円爾は京へ上ったらしい。萬寿寺、崇福寺、承天寺、いずれも九州の人間にとっては古寺として聞き覚えのある名だったが、そういうことなのかと初めて関係を知る。

 これで、日本における粉食文化というものが、北九州 ⇒ 京 ⇒ 江戸と伝わったことが何となく見えてくるが、まだ薄暗い藪を見るようで判然としない。

東福寺の石臼 相国寺の蕎麦  

 そんな思いをもちながら、いろいろな資料を読み漁っているときに、伊藤汎著『つるつる物語』にぶつかった。そこには室町時代の麺事情が具体的な文献を引用して述べてあった。そのひとつに足利8代将軍義政の代の相国寺の塔頭において蕎麦が食されたことや、石臼を廻すための水車すら設置してあったであろうことも紹介してあった。私は心おどる思いであった。すぐに京の相国寺を訪れて、お寺の方に尋ねてみた。すると、確かに昔は、賀茂川の水は相国寺を通って御所にひかれていたという。私は室町時代の相国寺で水車が廻るところを想像してみた。そして、禅宗の本山格である相国寺の蕎麦が木曾の定勝禅寺に伝わるのは道理だと思った。ここで初めて私は、北九州から江戸にいたる蕎麦の道がつながったと確信した。

 さらに私は、寺方蕎麦「長浦」を営む伊藤汎先生をお訪ねして、「寺方蕎麦」について教えを乞うことにした。 

 

博多の承天寺 京の東福寺 相国寺 木曾の定勝寺 江戸の常明寺

 

【博多・承天寺☆ほしひかる絵】

 

【京・東福寺☆ほしひかる絵】

 

【京・相国寺の水車の想像図☆ほしひかる絵】

 

【木曾の定勝寺☆ほしひかる絵】

 

 「江戸蕎麦」以前のソバ・ロードの、ほんの一部ではあるがイメージした私は、「江戸ソバリエ」認定事業をスタートさせ、仲間と「江戸蕎麦」について語り合いたいと思った。

参考:「江戸ソバリエ」誕生 (第46話、第50話、第51話、第53話、第54話、第57話)、伊藤汎『つるつる物語』(築地書舘)

  

   〔江戸ソバリエ認定委員長、寺方蕎麦研究会発起人 ☆ ほしひかる〕