第508話 幻の常明寺は神田川沿いに!

      2018/09/26  

=「ワテラス神田そば研」4周年記念に=

物事を考えるとき、〝初め〟を知ることは重要なポイントだと思う。
そういう視点で蕎麦史をみれば、次のことが課題となるであろう。
①植物の蕎麦が初めて日本に来たのは?
②日本の蕎麦麺の初めは?
③江戸蕎麦の初めは?
したがって、江戸ソバリエ協会が開講している江戸ソバリエ認定講座では、上記の3点を骨格として講義を行っているし、またセミナーも種々企画してきた。たとえば、
①については、またこの10月に特別セミナーを予定している。
その折に、この問題の自分なりの決着を話すつもりだ。
②については、10年前の2008年に伊藤先生が『フードカルチャー』で「日本の蕎麦切の初出は1438年とする」と発表された。
そのころ小生は同誌のゴーストライターや編集の手伝をしていたため、伊藤先生に執筆してもらったことを嬉しく思っている。
翌年からの江戸ソバリエ認定講座の「蕎麦史」の講座でも「蕎麦切の初出は1438年」として講義し、協会のホームページでもその内容のレポートを掲載、自分としては決着をつけているつもりだ。
③については、1614年に江戸の常明寺で慈性や東光院らが食した史実が初出とされているため、2014年に「江戸蕎麦切400年記念~第4回 江戸ソバリエ・ルシック特別セミナー」を開催し、ゆかりの東光院32世住職の木村周誠先生と『慈性日記』を校訂された林観照先生をお招きして、「幻の常明寺は何処か?」を議論した。
400年という節目の年に慈性研究の専門家をお招きしたことは個人的にも有意義だったと思っている。

ところで、初出の常明寺であるが、実は存在が不明であるため、蕎麦史上では“幻の寺”となっている。
幻の常明寺は何処か?」 私は当初、赤坂日枝神社の塔頭の一つ常明院を想定していたが、林先生から「目の付け所はいいが、ちょっと常明院というのは無理がある」と指摘され、その後神田川沿いの寺町にあった寺群の一つではないかとするようになった。
そのことを協会のホームページに掲載して、自分の中ではこの問題については決着しているつもりである。

さて、ここ「神田ワテラス」では、多くのソバリエさんたちが関わって、蕎麦打ち教室をやっておられるが、今年の9月で開設4年目になる。
そこで記念日の今日、何か話せということだったので、神田川沿いの「ワテラス神田そば研」の蕎麦打ちの会には、最適の「幻の常明寺は神田川沿いに!」をお話することにした。
この説の決め手は、次の様な状況があったからであった。
1)慈性は石町で借家していた。
2)慈性は法性寺で宿を借り、風呂の世話になったり、饂飩を食べさせてもらっていた。
3)慈性の父資勝は西福寺で馳走になったことがあった。
慈性父子が関係したこれらのお寺は、須田町・連雀町一帯にあったのであるから、私は「神田まつや」や「かんだやぶ」に注視している。ただ「まつや」の方は歴史が分からないが、一方の「かんだやぶ」は、元は藤堂家の下級武士であった山口伝次郎(後に三輪氏に改姓)が開いた「蔦屋・連雀町支店」である。山口氏がどのような経緯で連雀町の土地を買い取って支店を出したか、あるいは当時一帯はどうなっていたかを知りたいところであるが、もうそれが分かる人は誰もいない。

「神田ワテラス」を振り返ると、常日頃から「店は街とともに」という考えをお持ちの「かんだやぶ」の堀田社長は、一帯の再開発の話が持ち上がったときから、今日のようなコミュニケーションの場として蕎麦打ち教室をやりたいと話しておられた。
とうぜん、実行に当たっては、ソバリエに話が持ち込まれ、今日にいたったわけである。
そういうゆかりの地で「幻の常明寺は神田川沿いに!」をお話できたことは、私にとっても幸せなことであると思っている。

参考: http://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/20161012hoshi4.pdf

写真:「江戸蕎麦切400年記念~第4回 江戸ソバリエ・ルシック特別セミナー」
〔文☆江戸ソバリエ認定委員長ほしひかる