第568話 三種の神器
2019/04/02
~新元号決定~
新元号が‘令和’に決まった。
これまでの明治元年(1868年)、大正元年(1912年)、昭和元年(1926年)、平成元年(1989年)を経て、2019年5月から令和の年が始まる。
平成天皇が新天皇に譲位されることに伴って、令和元年5月以降に重要な儀式が行われることになっている。それはわれわれと無縁の世界であるがゆえに、逆に関心度もきわめて高い。
たとえば、皇位の証である三種の神器を受け継ぐ儀式剣璽等承継の儀(年5月1日)と、 即位した天皇が即位後初めて豊穣を神に感謝する新嘗祭(年11月14日15日)である。
うち、剣璽等承継の儀とは、八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の、いわゆる三種の神器の承継である。現在、八坂瓊曲玉は皇居に、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にある。
三種の神器の承継の儀なんて! とお思いの方もおられるだろうが、イギリス王国においては戴冠式、ローマ法王就任式においては指輪や十字架が象徴とみられることと同じで、伝統社会では普通のことである。
そもそも、この三種の神器なるものがわが国に最初に登場するのは、弥生時代の北部九州の邪馬台国の時代である。
当時の北部九州の古墳からは、玉・鏡・剣の三点セットが常時出土することは、考古学界の常識である。これが歴史でいう「邪馬台国と倭国連合」の情景である。
この「邪馬台国」とか、あるいは「倭」とかいう漢字はわれわれの祖先が原日本語で発していた「ヤマト」を中国が漢字で表記したものである。
そして300年後、この三点セットは近畿の前方後円墳から副葬品として出土するようになった。これが歴史でいう「神武東遷」と「大和政権」である。
政権が北部九州から近畿へと東遷したことに納得しない人がたまにいるが、近現代においても近畿から江戸東京へと東遷していることに気づけば奇怪なことでも何でもない。
ところで、神器という点からみて、一般的に権力が誇示できる「剣」というのは理解できるが、「曲玉」や「鏡」より、むしろ古代史を見れば「銅鐸」や「前方後円墳」が権力を誇示できるのではないかという意見もある。
その点、私はかつてある古代史論文コンクールにおいて「銅鐸」から「鏡」への権威の変遷について述べて入賞したことがあるから、「鏡」については納得している。だが、それにしてもどうして「曲玉」が権威や権力の象徴なのか、嬰児を表現した物だというが、それが権威とどう関係するのだろうか? よく分からない。ただ、いえることは「曲玉」や「鏡」といった不思議な物が神器としての地位にあることは、日本独自であるいうことである。またそれに匹敵する「銅鐸」「前方後円墳」ですら日本独自の文化であることに注目しておいた方がいいだろう。
それからもう一つ疑問がある。
それは、三種の神器なのに、なぜ皇居に揃ってなく、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮にあるのか?
専門書を読めば、それらが各々の所にある理由と履歴や、また形代の存在について詳しく述べてある。それでも立ち返ってやはりなぜだろうと思う。
一歩譲って、伊勢神宮は理解できないでもないが、剣が熱田神宮のままであることは不思議でならない。しかも熱田神宮はそれを皇室にお返ししようとしたこともないし、皇室が返却を求めたことも歴史上見られない。なのに、われわれは歴史的事実から納得しているのである。
繰り返すが、「曲玉」とは何か? 「剣」はなぜ遠ざけてあるのか?
ここに、日本人の精神構造の何かがあると思う。
振り返れば、平成のいつ頃からか、歴史、宗教、思想、知識、人種、地域というものが混沌としてきた。それゆえに、人間と人間、文学と科学、科学と自然、地球環境と災害などの関係が不透明になってきた。
新時代はそれをどう再構築していくか? の時代であると言われている。
そのようなとき、近年のようにポピュリズムやウェブで「分かる」という優しい‘共感’だけでは何も変わらないし、解決できない。代わって、文学や思想からくる‘想像力’でもって、再構築を図る時である。そのときに日本人の精神構造の解明が鍵になってくるだろう。
(追記:新嘗祭については、秋になったら考察しよう。)
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる〕