第635話 禍中の江戸ソバリエの店

     

にんげんをかえせ

 大塚にはJRと都電の駅がある。この季節の都電沿線には色とりどりの薔薇の花が咲いている。これをバラロードといっている。

 大塚にある江戸ソバリエの店「小倉庵」はこの自粛生活中も度々訪れている。当店は①固定客が多い、②日頃から出前もやっている。この①②ゆえに営業を続けている。ただしお店の窓は開いて、席を離して座ってもらって、入口には消毒液を備えてある。また③家族経営であり、④自社ビルであるところから、たぶん安定した経営だと思う。

先日、巣鴨の江戸ソバリエの店「栃の木や」さんから「お持ち帰りを始めた」という電話があったので、巣鴨まで歩いて行った。
途中、自転車からおりて話している二人の女性の横を通つた。すれ違いざまに「いやあ、うれしい。家の者以外の人と話すのは久しぶり~♪」という弾んだ声が耳に入った。
栃の木やさんのある巣鴨商店街は「商店街」というものの観光地といっていいほど客は外からの人である。だから今は人通りがほとんどない。それでも小さな飲食店は開いていたが、客はなく、細々とした弁当販売のみである。こうして開店しているところは、ひょっとしたら店舗を借りているお店が多いのだだろうかなどと余計なことを考えながら、「栃の木やさん」へ行った。
こちらも家族の結束力がある。ちょうど昼時なので、忙しそう。
なのでご主人の内藤さんと少しお話してから、「お持ち帰り せいろ」を買って、すぐに失礼した。往復7100歩の距離を歩くと結構汗が出た。

区内の江戸ソバリエの店「発芽そば ゆき」には3月におじゃました。
この店は最初から試験的間借り開店だった。ちょうど契約は3月いっぱい。夏ごろご実家(目白)での本格的開業が目的で、今ごろは改築中だろう。店主のゆきさんはソバリエ認定講座を申込むときから「開業したい」とおっしゃっていた。その一直線ぶりには「ほそ川」さんも、「かりべ」さんも、「菊谷」さんも、「一東庵」さんも舌を巻いていた。その誰もが「開業は早い方がいい。それが一番勉強になる」とおっしゃっていたが、確かに蕎麦汁なんかは1ケ月で締まった味に変貌した。今後も彼女持ち前の真っ直ぐな生き方で必ず何とかするだろう。夏の開店が楽しみである。
他の、遠くの江戸ソバリエの店にはまだ行けないが、今は大変なときかもしれない。しかしとどの人も弾力的な思考をお持ちのようだ。やがては落ち着いた日常が訪れるだろう。

更科堀井」さんや「神田まつや」さんの店から乾麺蕎麦のご案内などがメールで入っている。そうか、乾麺などを有しているとこういう時に役立つのだなと思ったが、有名老舗店だからできることでもある。

過日、テレビでフランスの☆印の一流店が来客が期待できないので、サンドイッチを作って販売している光景が放映されていた。
日本でも、一流の寿司店、天ぷら店も弁当を販売している。
食文化というのは、美味しさと雰囲気をふくめた文化がウリである。とくに江戸の四大食のウリは〝でき立て〟である。握り立ての寿司、揚げ立ての天ぷら、焼きたての鰻、茹で立ての蕎麦がうまい。江戸の昔だったら「アイヨッ! 熱いうちに、伸びないうちに食べてくれい!」と目の前に出されたのだろう。
蕎麦店は上層から庶民向けへ、寿司・天ぷら・鰻店は庶民向けから上層へと客層を広げたが、どちらにしろでき立てを粋に食べる文化だった。
しかし、弁当には、でき立ても、粋もない。
お客さんに何気なく「コンビニより高いね」と言われたという、ある老舗寿司屋さんが、「今までやってきたことを否定されたような気がする」と複雑な顔をされていた。
また会社に持ち帰ったその人は、席を離して独りで食べることになるだろう。
一部の小学校では始まったところもあるらしい。「おはようございます」のご挨拶は中止して、手を挙げることになっているという。教室では一人ひとりの席はビニールでカバーがしてあった。昼食はおしゃべりしないで、黙々とカバーの中で食べることになっている。
何かにさわったら手をよく洗いなさい、マスクをしなさい、人と人との距離をおきなさい、近づいてはいけません、手をつないではいけません。
政府は「新しい生活様式」という愚策を発表した。内容は人のつながりを禁止するものである。
しかし人間はつながりから幸せホルモン「オキシトシン」を分泌するという。(NHK『ガッテン!』)。
だったら、つながりを否定する生活は「新しい」ではなく「緊急」の生活の心得であろう。
コロナが人命も、人間性も、つながりも、文化も奪うことは充分わかっている。だからこそ、「あと2年したら落ち着くだろう。そうしたら人間の世紀を取り戻そう」と政府が言わないから、代わってここで言いたい。

昔、吉永小百合さんが文京シビックセンターの大ホールで、峠三吉の『原爆詩集』を朗読したことがあったことを思い出す。
彼女の女神力はすごかった。たった一人舞台に立つだけで、1800人の客はに水を打ったような静かになった。咳一つ聞こえてこない。その中を彼女独特の濡れたような声がホールをわたっていった。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
にんげんをかえせ

〔文・挿絵 ☆ エッセイスト ほしひかる