第650話 「武器としての『資本論』」読-Ⅱ
2020/07/26
~ 江戸ソバリエ宣言 ~
この本は『資本論』の解説書であるけれど、嬉しいことに著者は食についても触れてくれている。それは「なぜイギリス料理はまずくなったのか」というテーマとしてである。論によれば、イギリスの料理も昔はおいしかったが、19世紀の産業革命以降からまずくなったという。つまり産業革命によって農村共同体が崩壊し、「村」や「祭」の文化を失ったところに、新富裕層は外国人のシェフを雇って外国料理を堪能し、イギリス独自の料理文化を育てなかった、とある。ここが資本主義や新自由主義は、文化をも破壊する例として示しているわけである。
代わって登場してきたのがファストフード。というのは、カップ麺、チェーン店の単品食や、コンビニ弁当ばかりではない。「ファストフード」の〝ファスト〟とは味が単調なのでゆっくり楽しみながら味わう必要のない食、と本書では述べている。つまり自らの手で衣食住を作る能力を失い、大企業が生産供給する商品を消費するだけの人種になったこともファスト化である。要するに著者は、新自由主義は食文化も包摂した、と言っている。
危ない、危ない。「村」や「祭」の文化喪失、外国料理讃歌、伝統料理文化育成の怠慢という構図は、わが国も例外ではない。それを土俵際でギリギリ踏ん張っているところは、私は江戸の料理、つまり蕎麦・寿司・天ぷらのお蔭だと思っている。言い換えれば、近代化の波で地方の伝統料理が壊滅したが、幸い都市の伝統料理が健在しているというわけで、これが「都市文化」の効だと講座のときに申上げている。
これに対して、おおむねヨーロッパでは村的なものを守ろうということでスローフード運動が起きて、日本にもすぐ入ってきた。無論それはそれで大いに結構なことだが、できれば日本人自らが日本式で起こした運動を支持してほしかった。そのために、都市の伝統食と地方のニューウェイブとがうまくかみ合っていないところがないでもない。
そんな中でも、食のファストフード化はさらに突き進んでくる。 なぜなら、今の日本はアメリカ文明によって成り立っているからだ。小生が見るに現代は、政治権力(与党)=巨大企業(新自由主義)=メディア(CM)という△構造になっている。これを「ポスト・デモクラシー」というらしい。
なぜそうなったかというと、今の選挙は金が掛かりすぎるから、巨大企業の政治献金に頼らざるを得ない。メディアもまたそうである。大企業のスポンサーなくしては生き残れない。その巨大企業は新自由主義者である。大企業はCMを連日連発して消費を誘い、売上が政治資金となり、△関係が循環する。これがアメリカや日本の政治経済国家の姿である。両国はたぶん今後もこの構造を継続していくであろうし、そして格差社会がさらに問題となっていくだろう。
これと対峙する国家が、中国・ロシアなど「監視国家」である。
しかし、この度のコロナ・パンデミックはこの2つのグループのグローバリズムと環境破壊がひき起こしたという見方は、だいたい世界で一致している。
だから、ヨーロッパなどは先述のスローフードを礎として、大きくグリーン・リカバリーへと舵を切ろうとしている。つまり環境地球問題に取り組み、失った衣食住の倫理・自律を取り戻そうとしている。それが前話「読Ⅰ」の話である。
なら、日本はどうすべきか。それは、われわれの投票にかかっている。今の選挙は簡単にいえば、地方区(小選挙区制)は郷土愛、全国区は組織票で成り立っている。だから投票するとき、今まで通りに従うか。あるいは立ち止まって子や孫たちの顔を思い出して考えなおすか! これがもう一つの読後感である。
ところで、これを書いているとき高橋正さん(北京P・ウンナンの会・チーム農援隊)からメールを頂いた。「先日チーム農援隊で昨年栽培保存していた玄そばを、手動の石臼挽きで製粉して食しましたが、 久ぶりにおいしく、購入したそばとの食べ比べで、みながやはりその違いを実感した次第でした。」まさに、これがファストフードに抗する、食の自律である。
江戸ソバリエ宣言にはそれの思いを込めている。 蕎麦の花 手打ち 蘊蓄 食べ歩き 粋な仲間と楽しくやろう
〔文 ☆ 江戸ソバリエ協会 ほしひかる〕
絵:阿部孝雄