第656話 プリンスの罪
2020/09/02
このコーナーの拙文に、いつも感想を頂いているSさんから「今回(655話)はほしさんの怒りが感じられなくて、物足りないですね。怒ったり、悲しんだり・・・を文章にしてください」というメールを頂戴した。
本来の蕎麦談義より、コロナ談義の方が反応を頂いていることは前にも述べましたが、ある意味当然でしょう。ミニ知識の披露なんかより、心や気持を書いた方が訴える力があるし、ましてやただの散歩じゃつまらないだろうと自分でも思います。
しかし気持を書くのって、それこそ気持がけっこう負担なんですヨ!
でも、たまには異分野もいいかと思って、今だけコロナ談義を書いてみたわけですが、振り返ってみると631話. 632話. 634話. 635話. 636話. 638話. 641話. 644話. 648話. 648話. 649話. 650話. 654話がそうでした。
今、それを見てみますと、書き殴っているいるだけで、マ~まとまりのないこと、恥ずかしいぐらい。ただ、その中に言いたい文言だけはチラホラあるように思います。
でも残念なことに、ここで私が何を言っても、先ずは天に届くことはありえません。ドラマ「半沢直樹」のようにはいきませんね。
というのは、あるとき山東派のある議員にこう言われたことがあります。
あなた方がどんな正しいことを言っても、皆さんが何と吠えようとも、新聞の社説でどんなにまともなことを主張しても、学者がどんなに理論的な論文を発表しても、政治家は耳を傾けませんヨ。聞くのは政治団体だけです。「だから何か言いたいなら、政治団体をつくりなさい」と。
彼らにとっては票を期待できる人だけが、声を聞くに値する人たちという意味だ、だから政治団体か、選挙区の人たちの声は聞くというわけです。それが民主政治の実態なんです。
それが証拠に、河井元法務大臣夫婦(広島県)が、選挙違反事件で逮捕されたとき「選挙民にご迷惑とご心配をおかけした」と言っていましたが、ほんとうは、法務大臣の身でありながら、日本の民主政治を堕落させたことを罪に思うと言うべきところ、選挙民に対してだけ詫びたというところが、今の政治家の姿を表していると思います。もっとはっきり言えば、政治家は票しか頭にないということです。
さてさて、Sさんに直球を投げられたので、キチンとミットを構えてボールを受け止めなければと思っていたところ、安倍首相の辞任となった。
個人的には、安倍首相は、とうとう何もできずに終わったのかと思うと同時に、長期政権の副作用である森友・加計・さくらの問題によって、公の政治を私物化してしまい三流政治へ落とした罪をかぶるべきではないかと思っている。だが、難病による体調不良とのことでは、優しい日本人は遠慮して追求の手を控えてしまうことになるだろう。
それにしても、なぜわれわれは、安倍を選んだのだろうか?
そこで近々の日本の政治を振り返ってみよう。
2006~09年は、なぜか「政界のプリンス」といわれた人たちが立て続けに首相になった。安倍(山口)は祖父岸信介・大叔父佐藤栄作、福田(群馬)は父福田赳夫、麻生(福岡)は祖父吉田茂といった血統の良さを誇ったが、なぜか短命に終わった。
それから2009~12年は、 鳩山(北海道)・菅(東京)・野田(千葉)と野党が政権を取ったが、2012年自民党が奪還し、首相に再び安倍が選ばれた。
なぜ野党はダメで、なぜ再びプリンスなのか?
もちろん、以前までの流れも見なければならないのだが、とりあえずこの年代だけを切り取ってみると、野党を含めて7首相中5名がプリンスである。つまり2006~20年まではプリンスの時代であるといえる。
なぜそうなったのだろうか?
その一因は、①国民が本気で第二党を育てようとしない、親方日の丸体質であること。②自民党は下野体験の屈辱から、保守性を前面に押し出したからだろう。その保守性の中に血統の良さが入っいた。
そんなわけだから、安倍・麻生のプリンス・コンビに日本は任された。言葉を換えれば、吉田茂・岸信介・佐藤栄作の亡霊時代が続くことになった。
加えて、いつのまにか「安倍一強といわれる」という修飾語がかならず安倍の名前に冠するようになった。「安倍一強」とはどういう意味か、何の実態もない。ましてやわれわれ国民がそんなことに気づくはずもない。言い出したのは大手メディアである。たぶん某新聞あたりだろうと一部の政界通は言うがもちろん証拠はない。たぶんその新聞社のオーナーは日本の国士を気取っていたのであろうが時代錯誤もはなはだしい。
とにかく「安倍一強といわれる」という修飾語が連呼されたのは事実である。その点からいえば、本来権力と対峙すべきところ、加担した大手メディアの責任は大きい。
加えて安倍総理は堂々と「政治は結果を出さなければならない」と何ども何ども繰り返し言っていた。だからわれわれは結果が出るだろう、結果が出ているだろうとのマジックに陥った。
かつて、ミニ雑誌の編集を手伝ってたとき、私は後記に「アベノミクスがアベノミスにならないことを願う」みたいなことを書いたことがある。日本はもう経済戦略より文化戦略を選ぶべきだという考えからであった。案の定、度々の調査によると「株価は上がっている」が、「暮らしはよくなっていない」という結果である。つまりは国民のための政治ではなく、経済=経団連のために、そしてそれは自民党政権を堅持するためにと、政治の目的のすり替えられたことになる。
話はちがって、私も知らなかったが、先月の某新聞の論評記事によると、安倍政権がコロナ対策としてあるていどの金を使えるのは旧民主党の野田政権のお蔭らしい。
野田政権というのは「将来世代への負担を先送りしない」ことを明確に目指した政権だった。具体的には①東日本大震災の復興費用は今の世代で負担することとして、薄く広く徴収する復興特別税を導入、②国民が嫌がった消費税10%も実施させた。と紹介してあった。思い出せばたしかにそうだった。そのため日本の財政は市場の信用を得た。
ところが国民は選挙で菅・野田を切り捨て、プリンスのいる自民党を選んだ。そのプリンスは借金を膨張させている間、いつのまにか安保法制・特定秘密保護法など、自民党のための保守の政治を遂行した。
ドイツなどは国債発行する場合は返済完了時期も明確にするが、日本はうやむやである。今や、商品を製造したり販売したりするには残存処理まで責任をもつのが常識である。だが、日本の政治家の仕事はやりっ放しだ。その政治スタイルのツケが原子力発電の問題となっている。日本の政治手法は時代錯誤ばかりである。
こうして、プリンスを忖度した大手メディア、それを許した国民。この間にGDPは中国に越され、世界は変わっていた。これがプリンス時代の日本の真実であろう。
だが、よくよく考えてほしい。プリンスも、長期政権も国民には関係ないことである。だいたい政界に血統とか、プリンスが必要なのか。歌舞伎や老舗じゃあるまいし。一言でいえば日本の政界は古い。そんな錯覚に国民は目覚め、選挙区内では誰を選ぶか、誰を選んではいけないのか、しっかりしたいものである。
なぜなら、われわれの声が永田町へ届く仕組みはない。できることは清き一票だけだから。
たまたま昨夜のテレビで沢口靖子主演の「お花のセンセイ」というドラマをやっていた。華道の先生が議員になって、下層階級の人たちのために奮戦するという理想の政治家が活躍し、一方では悪徳政治家が自滅するという、現実にはありえない(笑)ドラマだった。
そのなかでの沢口センセイのラストのせりふが効いていた。「ぜひ一度永田町へお越しください。ここは皆様方の生活にとって大事なことを決める所です。」
文・挿絵小麦 ☆ エッセイスト ほしひかる