第774話 蕎麦+珈琲 ⅱ
「天真庵」といって、蕎麦屋で珈琲を出している店がありますよ。
とソバリエの鈴木さん、飯高さんから、教えていただいたとき、あ~そうだった、ゆさそばさんが初めてライブを開いた蕎麦屋だったことを思い出して、行ってみた。
店は十間橋通りの静かに佇むようにしてあった。店内の空気、穏やかなジャズが下町らしく、いい感じである。
メニューを開くと、確かに蕎麦と珈琲がセットになっている。こんな蕎麦屋は珍しい。問題の珈琲は《ほぼブラジル》となっていた。
「このほぼ、って何ですか?」
「ブラジルを中心にブレンドしています。」
やはりそうかと思っていたら続きがあった。「昔、ボボ・ブラジルって、プロレスラーがいたでしょう。あれに乗ったんです」。
この遊び心に、いい味の予感がする。
さっそく蕎麦を啜る。涼味と腰があって蕎麦らしい。ただほんの一瞬だけ、戸隠蕎麦に似た不思議な感触がする。これは何だろうと思ったが、分からなかった。
続いてユーモアをふくんだ《ほぼブラジル》、これは後味がやわらかい珈琲だった。
ここで問題の、「どうして蕎麦と珈琲ですか」と尋ねてみた。
店主ご夫妻はご自分たちの個性的な半生を静かに語られたが、その課程で蕎麦と珈琲との巡り会いがあったようだった。そして両方とも粉と水、単純なのに奥深いことかなとおっしゃるが、私は店主の探究心が今を形成しているような気がした。その一つが水である。何も教えられぬうちに出された二つのコップの水のうちの一つが最高に柔らかい。驚きながら尋ねると、能登から自分たちが運んでくる《藤瀬霊水》だという。
それを聞いて、そうか蕎麦のあの不思議な味の正体はこの霊水だったのか、おそらく極端に硬度の低い軟水であろう。だから、蕎麦ばかりか、つゆと珈琲ともに感じる優しい味に納得した。
しかし、課題の「蕎麦と珈琲の関係」の謎は解明されなかった。ただ「両方とも粉と水、単純なのに奥深いことかな」のなかにヒントがあるような気だけはした。
それからもう一つ、この霊水のおかげでまったくちがった事案が分かったところがあった。それを述べると長くなるので、別に「新・美味論」として述べる機会があるだろう。
とにかく、個性的な風味を創り上げた、仲の良さそうなご夫婦のこの店が忘れられない蕎麦屋の一つになったことはまちがいない。
〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕