第880話 和服で蕎麦を
2024/02/04
平成六年一月、江戸ソバリエ倶楽部の新年会が日本橋で開かれた。
岸間健貪さん(江戸ソバリエ)の「蕎麦猪口」の話があった後、参加者64名の懇親会となった。
多くのソバリエさんたちとお話しているなかで、「奥」さんが「最近、和服にはまってます」とおっしゃった。彼女は蕎麦はむろんのことお茶も嗜まれ、そのうえに和服というわけだ。それで思い出し、「ソバリエ初期のころ『着物で蕎麦を食べる会』というのがありましたよ」と申上げたが、そういえばその会の代表だった彼女はどうされたのだろうなどと思いながら、いろんなことを連想してみた。
「蕎麦と着物」というお題で、たまたま見かけた光景があった。
幹書房の社長とある蕎麦屋で、編集協力のおつかれさま会を開いてもらったときだった。その店のカウンター席には40代ぐらいの着物の女性が一人、徳利の酒を猪口に注ぎ、文庫本を読んでおられた。お摘みは冷奴。姿勢もよく、カウンターから拳一つぐらいを空けて座っておられた。そして猪口を何回か傾け、本は数頁を捲っていたが、そこへ《ざる蕎麦》が運ばれてきた。彼女は本を閉じてバッグにしまい、お蕎麦を食べ始めた。盛りを摘まんで口に運び、ツツツと啜ると同時に麺を箸で手繰る。この啜ると手繰るの息がぴったりして、その動作はまさに〝粋〟そのものだった。同じようなことを感じていたのか、隣に居た幹書房の社長も「絵になるな~」と感心しておられた。
蕎麦の食べ方というと、決まりの事のように「音を立てて云々・・・」という話になるが、私が親しくしている落語家さんは、「音を立ててと言うようになったのは、落語家が悪い。落語は笑いだから、わざと面白おかしくズズズーと汚い音を出して演じているのだ」とおっしゃっていた。この落語家さんは、新規の蕎麦屋の名前を決めてほしいと依頼されたときに「たぐり庵」という名前を提案したそうだ。この「手繰る」という言葉は今ではあまり使わなくなったが、カウンター席の女性を見て、「蕎麦を手繰る」という言葉も女性の食べる仕草から生まれたのかもしれないと思った。それにそもそもが〝粋〟という概念すらも辰巳芸者から始まったと言われているから、当協会で「蕎麦の食べ方」を作成したとき、挿絵は和服の女性に登場してもらうことにしたのだった。
「蕎麦の食べ方」誕生の背景になった体験は、もう一つあった。
それは、ソバリエ仲間とサンフランシスコの桜まつりに行ったときであった。
桜まつりはサンフランシスコの日本人会主催であったからか、和服姿の女性や男性が何名もいた。驚いたのは、その中に中学校の同級生と実家の近所の人が二人もいたことだ。もちろんこの三名と事前連絡、打ち合わせなんかしていない。何十年ぶりの偶然の再会だったが、本論と関係ないことなので、この話はここで打ち止めだが、本題は前夜祭のレセプション会場でのことであった。
テーブルに並んでいる料理を取るとき日本人の和服姿の彼女たちは、長い袖を押さえながら料理を取った。長い袖が置いてある料理に触れて汚れないようにである。彼女たちの自然の行為であった。その隣にはアメリカ人女性たちが何名もいた。彼女たちは腕も肩も素肌だったから、自由に手を伸ばして料理を取っていた。
やはりそうなのかと思った。たしか明治維新直後に欧米へ行った政府の視察団の記録にもそのような体験記事があったように記憶しているが、日本人が器を手に持って食べるようになったのは、長い袖が汚れないためだったのである。和食では碗(椀)と皿の使い分けは明確であって、主食は椀に、肴類は皿に盛ってある。そして主食の碗(椀)物は手に持って食べ、皿物は手に持たないで箸で取って食べる。
洋食はスープだって、テーブルに置いてある器からスプーンで掬って口に入れる。そうすると汁が最後まで掬えなくて残ってしまう、という歯がゆい場面は、皆さんにもご経験あるかと思う。
食べ方の作法、マナーというのはその民族の服装、建物、環境によって定まっていく文化だというわけであるが、和服を捨ててしまった現代日本人はもうマナーを変えてもいいではないかという声もあるかもしれないが、文化には変えてよいことと、変えてはならないことがある。
それを考えないで、変化だけ求めるのは浮草文化となるのに等しいと思う。
ところで、18期ソバリエの「野」さんは脳学レポートで「女性の蕎麦の食べ方」についてふれられていた。そのレポートを拝見したとき、先に述べた某蕎麦店やサンフランシスコの光景を思い出したところであったが、加えて今はいっそのこと、「奥」さんと「野」さんの美女コンビで、新しい日本人の蕎麦の食べ方をまとめていただけないだろうかと期待しているのだが・・・。
江戸ソバリエ協会理事長
和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる
「蕎麦の食べ方」
https://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/howtoenjoysoba0.pdf
写真:新年会で、63名の皆様から頂いた花束