第926話 レッド・カーペット

      2025/01/24  

~ Ayako Takato×Hisao Fukushima ~

  久しぶりに大江戸線に乗った。
 久しぶりの「京金」だった。
    歌手の高遠彩子さんから、「京金でライブを開くので、ぜひ」とのお声がかかったのでうかがった。
 お店は昔と変わっていた。お尋ねすると6年前からだという。6年・・・、この間にコロナ禍があった。私は大切な友を亡くした。それでなくても多くの人たちにとっては灰色の年月だった。蕎麦好きは思うように蕎麦屋巡りもできなかったことなど、あらためて思い返した。

 案内された卓では、プロのカメラマンAさんと森林関係の農学博士Bさんたちとご一緒だった。お二方とも、高遠さんのライブは数年ぶりだと言われたが、私は今日が初めてだった。
 彼女とご縁ができたのは、あるネットが企画した蕎麦対談番組だった。それから偶にお会いしたりすることもあった。
 席では、Aさんが先日伊豆に行ったところ桜が咲いていたとお話された。すると植物に詳しいBさんが桜についての補足をされたりと、料理やお蕎麦をいただきながら、楽しい席となった。 

 それから高遠彩子さんの登場である。彼女の歌はすべてご自分のオリジナルである。たぶん日常で感じたこと、思ったことを歌に歌にされているのだろう。そのせいかシャンソン風ボサノバ風の雰囲気がある。だから今日のギター奏者福島さんの爪弾きとよく合っていた。
 高遠さんは蕎麦好きで登山が趣味である。彼女のブログはこの二つを中心に書かれてるといっても過言ではない。しかも彼女が訪れた蕎麦店はまちがいない店ばかり、さすがである。なにせ彼女は匂いに敏感で、匂いから美味しさを判断するという。ちなみに私は、どちらかといえば色彩や形を重視する。
 それにしても自作というのは、大変だ。でもそれだけに楽しくもあるに違いない。
 高遠さんの歌には「月」「星」「空」や「花」があふれている。おそらく登山で体感した言葉だろう。「五線譜の小鳥」という曲は、彼女が麓の草原で見た景色だろうか。それとも都会の光景だろうか。私も毎朝、雀クンに餌をあげるのがここ何年もの日課になっているから、チュチュチュンチュンという曲に心から同調できた。だけど、日常を描く(作詞作曲)というのは、このような絵本のような世界ばかりではないだろう。「ジダンダ・ダンス」を聞いて、そう思った。
 「ジダンダ」というのは「地団太」のことである。つまり悔しいことがあったときは家に帰って、思い切り地団太を踏むこともあるということらしい。
 彼女はお人形さんのようなお顔をされたかわいらしい方である。そういう人でも地団太を踏みたくなるような闘いがある。その意外性の背後には物語が潜んでいるようで、なかなか面白い曲だった。
 そして、闘いを乗り切った人は、他人にも優しくなる。それが「レッド・カーペット」だと思った。歌の内容は題名からも想像できるだろうが、一途にがんばっている人への応援歌であるという。
 そういえば昔、アリスに「チャンピオン」という激しい歌があった。こちらは明らかに男性的であったが、「レッド・カーペット」の方はどちらかといえば女性的であった。しかし二曲ともちょっぴり哀愁が漂う。それゆえに「ジダンダ・ダンス」も「レッド・カーペット」も人間賛歌&人生哀歌として胸に響く曲であった。

 そんなことを感じていると、一人の友人のことを思い出した。名前は伊嶋みのるさんという。ソバリエの仲間だった。彼は、蕎麦屋巡りをしながら、好きなお店や絵になるようなお店を墨絵で描き、そして個展を開いたり、画集を出して、「京金」さんも描いていた。
 彼が画集を出すとき、帯に一言書いてほしいと依頼されたので、こんな一文を寄せたことがあった。

 伊嶋スタイルをあなたへ
 人生の粋、ここにあり!

 私たちは、〈好きなこと×できること〉を得ることができれば幸せである。
 伊嶋みのるさんはそれを見つけた。
 筆一本持って、蕎麦屋を巡り・・・・大好きな蕎麦を啜って、絵を描く。
 そうしたスタイルをひとつ身につける。
 これを粋な生き方というのだろう。

 友人伊嶋さんも、間違いなくレッド・カーペットを歩いた人だった。

 高遠彩子さんの歌から亡き友人さんの想い出に話が飛んだが、それが歌の良いところということで、ご容赦願いたい。

 

エッセイスト
江戸ソバリエ
ほし☆ひかる