第944話 お茶文化をめぐる拙論-Ⅰ

      2025/06/09  

 ウイーンから帰って来た親友のSさんと銀座で食事をしたとき、お土産にコーヒーをいただきました。
 その方からは何年か前にもアムステルダムのお土産としてコーヒーを頂いたことがあります。そのとき私はコーヒーの入った袋の「DOUWE EGBERTS」「MOCCA」を見て、「MOCCAじゃないの、ありがとう」と言いましたが、「DOUWE EGBERTS」についてはどこかで耳にしたようですけど詳しくなかったので、調べましたら「創立270年オランダNo1のブランド」ということでした。日本では、更科堀井の創立が江戸中期の1789年です。DOUWE EGBERTSはそれより少し前ですからかなりの老舗だなと思ったりしたことを覚えています。
 だからというわけではないのですが、今回のお土産を機に、コーヒーや茶について何か書いてみようかと思い立ちました。
 といいますか、その前に私は、昨年の秋に韓国へ行ったとき、かの国ではお茶類を飲む習慣がないことに気づき、その驚きをまだ引きずっていたのです。これまで4回韓国を訪れていたものの、いずれも3日ほどの滞在でしたので、韓国のお茶の慣習にまったく気づかず、昨秋は1週間滞在していたため、あらためて気づいたというわけです。

 現在、世界中の人がコーヒーか茶(緑茶・烏龍茶・紅茶・他)を嗜好飲料=いわゆる「お茶」として愛飲していますが、そういう文化をもたない国もあるようです。石毛直道によりますと、それは東南アジア、東欧、オセアニア、アフリカの人たちだということですが、そこに韓国が入っていようとは思いもしませんでしたから、驚いたわけです。

 史上、茶文化を創り上げたのは漢民族であることは、その影響下にある日本人なら自然に認識しているものです。つまり漢民族の茶文化は仏教文化とともに、周辺の韓国、日本、チベット、モンゴルへと伝わりました。ところが韓国はその後に儒教の国になって喫茶を禁止して茶文化は廃れ、今もそのままだというのです。
 したがいまして、現在は.中国(チベット)、日本、モンゴルが、茶文化の先進圏といえるのです。 

 ところがです。地球上に次のお茶文化圏が生まれました。
 それがⅡ.ヨーロッパの紅茶・コーヒー文化であり、ヨーロッパ人が日本の「茶の湯」と遭遇したことから始まったようです。
 そのあたりについては、『茶の世界史』の著者角山栄は「プロローグ」で次のように鋭い指摘をしていますので、その概略を記してみます
 ポルトガル人・スペイン人・オランダ人・イギリス人が相次いで日本にやって来たころ、アジアは豊かで、北緯40°以北のヨーロッパは貧しい国であった。 
 そのとき彼らが見た、日本の倫理観のある茶の作法、美しい陶磁器、いわゆる「茶の湯の文化」 に対する、畏敬と憧憬からヨーロッパの近代史は始まった。ということのようです。
 いずれにしても、こうした驚愕を伴ってヨーロッパに茶を持ち込んだのはオランダです。しかも最初は日本の緑茶だったのです。
 ところが、日本が鎖国政策をとったため、オランダは中国の茶(緑茶・紅茶)に切り替えたました。もし日本が閉鎖政策をとらなかったら、今の日本はもっと違った国になっていたでしょう。ついでながら、当時オランダが隆盛だったのは日本から銀を吸い取っていたお蔭であって、日本の銀が枯渇すると、オランダも凋落して、世界はイギリスの手に落ちたといわれています。幕末の志士たちが、これからは蘭語だ、次は英語だともっともらしく咆哮していた実態は世界の覇権競争の渦に巻き込まれていただけのことでしょう。

 さて、話を戻しますが、コーヒーをヨーロツパに持ち込んだのもオランダです。1640年、オランダがイエメンのモカ港からアムステルダム港のコーヒー貿易を開始したときからです。ですから、アムスタルダムから帰って来たSさんからいただいたコーヒーがMOCCAだったので、「へえ、面白いな」と思ったわけです。
 せっかくですから、コーヒーの起源地を言いますと、エチオピアだといわれています。それがペルシャ、イラク、シリア、トルコに伝わり、そしてヨーロッパへと入ってきたのです。
 また茶の起源地は、小さな葉の中国系は雲南省南西部・チベット、大きな葉のアッサム系はインドアッサム・北ビルマです。それがオランダとイギリスの東インド会社の手で〝商品〟としてヨーロッパに入ってきたのです。
 こうして、大まかにいってヨーロツバ大陸はコーヒー文化イギリス島は紅茶文化が育っていきました。
 紅茶がイギリスで国民的嗜好飲料になった理由はよく分かりません。ですが、1)コーヒー競争でオランダに負けたため、2)イギリスが軟水なので紅茶に合ったため、3)イギリスの王家が紅茶好きだったため、4)ベッドフォード侯爵夫人がアフタヌーン・ティ文化を作ったため、などがいわれています。
 対して、コーヒーは何と言っても、コーヒー・ハウス文化です。コーヒーハウスは、一言でいえばクラブですが、聖人貴族などの社交と情報の場です。各国のコーヒーハウスの状況は、次の通りです。

 1650年、イギリスにコーヒーハウスができる。 
 1664年、オランダにコーヒーハウスができる。
  *《水出しコーヒー》はオランダ人の開発、ですから《ダッチコーヒー》ともよばれています。
 1671年、フランスにコーヒーハウスができる。
 1679年、ドイツにコーヒーハウスができる。
  バッハの『COFFEE CANTATA』は1732~34年に作曲され、ライプツィヒのコーヒーハウス「ツィンマーマン」で発表されました。
 1683年、オーストリアにコーヒーハウスができる。
  *ウィーンのコーヒハウスは遅れて出現しましたが、ヨーロッパのコーヒーハウス文化の中心となりました。
 Sさんから、いただいた「KAFFEE ALT WIEN」もウィーンでは知られた店のようですが「Cafe Frauenhuber」は1824年開業だというから老舗です。ちょっと行ってみたいものです。

 日本には、江戸末期のオランダ人によって長崎・出島に入りました。食通で蕎麦好きだった太田南畝も珈琲を飲んでいます。ちなみに、コーヒーは日本語で「珈琲」と書きます。なかなかいい感じだと思いますが、考案したのは蘭学者の宇田川榕菴です。 
 しかし本格的上陸は、明治からです。何処の国でもコーヒーは港から広がっています。日本は先ず神戸でした。次が横浜です。そして当時の国際勢力からいって神戸はドイツ風、横浜はイギリス風でした。私が社会人になって珈琲を覚えたころ、ドイツの「ジャーマンコーヒー」という言葉が行き交ってましたが、いまはその言葉もほぼ消えたようです。戦後、アメリカが台頭したことから日本のコーヒーもいまはアメリカ風になりました。日本独自といわれた喫茶店文化が廃れ、コーヒーチェーン店に網羅された現在の日本は、アメリカ資本主義の支配によるものでしょう。こうして、ヨーロッパの紅茶・コーヒー文化圏に、アメリカが加わって、いま私たちの周りではコーヒーを飲む人が多くなり、まさにコーヒーの花盛りと言っても過言ではないでしょう。
 ちなみに市場規模を見てみますと、次のような数字です。
 (ただし大まかなデータなので、おおよその市場規模として見てください。)
  コーヒー:約460億米ドル
  紅茶:約230億米ドル
  緑茶:約130億米ドル
  烏龍茶:約4億米ドル
 こうした地球のお茶の文化を図にすれば、右のようになるでしょう。  

 振り返りますと、東アジア圏時代はお茶は〝文化〟でありましたが、ヨーロッパ圏ではお茶類をを〝商品〟として育てていき、そしてアメリカ圏になりますとさらに大企業の手に移り、日本の緑茶ですらファストフード化してしまい、日常茶飯事の手文化は風前の灯となりつつあるのが見えてきます。 
 今後、世界のお茶文化がどういう方向を目指していくのかも見定めてみたいと思っています。 

追記
 上の拙い文を綴っているうちに、さらなる疑問がわいてきましたので、次の課題として考えていきたいと思います。
 ・お茶と料理の関係?
  とくにモンゴル茶「ツァイ」と肉料理
 ・なぜヨーロッパ・アメリカのコーヒー・紅茶は商品となったのか?
 ・なぜヨーロッパのお茶は砂糖・ミルクを入れるのか?
                                          以上

《注》なお、嗜好飲料全体を指す場合は「お茶」と表記、茶の葉製品は「」としています。

《参考》
 J.S.Bach『COFFEE CANTATA』
 アガサ・クリスティ『ブラック・コーヒー』
 Peggy Lee 「Black Coffee」
 西田佐知子「コーヒー・ルンバ」
 角山栄『茶の世界史』(中公新書)
 ウィリアム・H・ユーカーズ『ALL ABOUT COFFEE』(角川文庫)

 エッセイスト
ほし☆ひかる