第284話 「お寺のごはん」

     

絵 江戸ソバリエ川俣静

「お蕎麦はもともとお寺で食べられていた」と申し上げると、たいていの方が「イガイ~、庶民の食べ物と思っていたけど、」などと妙な感心の仕方をされ、かえって戸惑うことがある。
それはたぶんお寺というものを現代のイメージだけで認識されているから、「意外」ということになるのだろうが、歴史を振り返れば、寺院というのは宗教修行の場であり、大学であり、図書館・博物館・美術館であり、あるいは留学の近道であったり、商社であったり、時には政治力や武力や権力や財力を有し、まるで独立國のような強さがあった。
したがって、寺院は日本文化の源であり、当然ながら寺院が食文化の泉だったのである。
ちなみに、「文化」という概念は、日本独自のものであり、世界的には「文明」という言葉が一般的である。それをあえて「文化」という言葉で日本の特質を見ようとしたところに日本の特質がある。
それはさておき、「寺院は日本文化の源泉であり、食文化もまた・・・・・・」ということが分かるのが、2015年1~2月にEテレで放映された「お寺のごはん」という番組であったと思う。
番組では、今もお寺が伝え続けている食の文化が採り上げられていた。
それを取材した寺院は次の七つであった。
1)道元禅師以来、現在でも365日230人分の《玄米》を煮ている曹洞宗永平寺別院長谷寺(東京)
2)全国の餅を称える儀式《談義》=律宗唐招提寺(奈良)
3)親鸞上人への御礼《大根焚き》=真宗了徳寺(京都)
4)日蓮上人が臨終に食した《ひきずり豆腐》=日蓮宗本行寺(東京)
5)一休和尚が村人に作り方を教えた《寺納豆》=臨済宗一休寺(京都)
6)寺と地域の人たちが復活させた《深大寺蕎麦》=天台宗深大寺(東京)
7)黄檗宗萬福寺(京都)の普茶料理(黄檗料理)

採り上げられた食材は米・蕎麦・大豆・大根、料理法は煮る・茹でる・揚げるなどである。こう述べただけでも、われわれの日常食のルーツがお寺にあることがお分かりだろうが、さらに思うところを述べてみたい。

わが国の料理は、平安時代までは「生物干物切っただけで並べる」のが当時の宴席料理だった。
そんなとき、鎌倉時代の僧道元は留学先の宋国で、煮る・トロ火で煮込む・蒸す、焼く・炙る・炒める・揚げるなどの料理法によって五味(甘・鹹・酢・苦・辛)の料理がなされていることを知った。
帰国した道元禅師は、宋式の五味に「淡味=薄味=素材の味を活かすこと」を加えた六味(甘・鹹・酢・苦・辛・淡)の料理を展開したのである。それゆえに道元は「食の思想家・革命家」といわれる。
その基本であるお粥は関東ではあまり見られないが、西日本では少し前まで朝食はお粥に決まっていたという家庭があったものだった。そこでは昔から「飯は炊く、粥は煮る」といってきたが、この炊く・煮るの違いがわが国独特の水を使った料理の豊富さを示している。それも道元が革命的に料理を開発してからのことであることはいうまでもない。
ちなみに、日本の味といわれる「旨味」もまた、この鎌倉・室町時代の寺房の料理から芽生えた。

鎌倉時代の日蓮上人がお好きだったという豆腐は、中国唐の時代に始まり、奈良時代に日本へ渡来して、当初は貴族や僧侶たちが食していた。それが室町時代以降から一般にも広まり、日本人の好物の一つとなった。
納豆 ― ここでいう「納豆」とは中国から伝わって奈良時代に寺院や宮中で作られていた「塩辛納豆」(寺納豆)のことである。蒸した大豆と麹で麹豆を作り、塩水に浸けて発酵させた後、乾燥させた物。色は黒く、味噌のような風味がある。寺院の納所で作られたから「納豆」と呼ぶようになった。
番組では一休和尚の伝説を紹介していたが、他にも京都の大徳寺納豆、静岡の浜納豆が有名である。
後代、「糸引納豆」が現れて今ではそれが主流となっている。
納豆、豆腐、と豆物が登場していながら番組では味噌が採り上げられていなかったが、あまりにも一般的すぎていたためだろうか。
この調味料は、紀元前2000年ごろの中国に味噌の前身らしきものがあったという。日本では大宝律令(701年)に記載されているから、もう長いお付合ということになる。
現在使っている味噌という言葉は、高句麗で「密祖」と呼んでいたことに由来する。ということは、【中国大陸 → 朝鮮半島 → 日本列島】という味噌ルートがあったということであるが、豆腐、納豆にしても同じルートが想定されるだろう。

☆ 大根は古墳時代には日本に入ってきていたようだから、これまた古いお付合ということになる。とくに、宋では麺に大根が薬味として添えられていた食習慣があったらしく、それを留学僧たちがわが国に伝えた。それから、寺院では大根の煮物、あるいは麺+大根として食すようになった。

☆ 蕎麦は縄文晩期には日本列島に上陸していたが、天武天皇が米を主食と決めてから、日本人は米を食生活の基本としてきた。
ただ、奈良時代の元正天皇の詔「稲が実らないときは、晩稲、大麦、小麦、蕎麦を植えよ」にしたがって、麦、蕎麦は「救荒作」としての地位を与えられ、多くの農民たちは米に付随して麦・蕎麦を手掛けてきた。
そこへ鎌倉時代になって、石臼が伝来して日本も粉文化が始まり、蕎麦切を口にすることができるようになった。
そのうちの深大寺蕎麦は、江戸初期の『蕎麦全書』で紹介されるほど名産だったが、明治以降栽培されなくなっていた。それを深大寺の現ご住職や浅田さんという蕎麦屋さんたちが、復活されたという話は、このブログでも再三述べてきた通りである。

寺房料理】といえば、永平寺料理、高野山料理、大徳寺料理、そして萬福寺の黄檗料理がよく知られている。
永平寺料理は先述した通りである。加えて、先日たまたまアーカイブで「高野山」という作品を見る機会があったが、そこでは現代でも毎日、弘法大師に食事 ― ご飯、味噌汁、大根煮、黒豆、海苔ととろろ芋の蒲焼 ― を差し上げ続けているという内容であった。
これら永平寺と高野山料理は純粋の「和式精進料理」であり、そこから「茶懐石料理」へと発展したものが大徳寺料理、また萬福寺料理は「中国式精進料理」である。
この黄檗料理の特色の一つは植物油で揚げる料理があることにある。
日本の料理は精進料理に因るところが大といえる中、併せて植物油で揚げる料理が一般に広まったのは黄檗料理の影響だと思う。

物事には「変化」を重視することもあろうが、「そもそも論」を理解しておくことが必要な場合もある。
そういう意味でも、日本人なら「お寺のごはん」すなわち「寺房料理」をもっと知っておくことが肝心だと思う。
そんな精神をもって、私たち江戸ソバリエは「寺方蕎麦研究会」をもっている。

参考:Eテレ「お寺のごはん」(平成27年1~2月放映) 、NHKアーカイブ「高野山」(昭和56年放映)、NHK歴史ヒストリア「和食はどうしておいしくなった!?」、

〔深大寺そばの学校講師 ☆ ほしひかる