第296話 禅を頂き、粋を啜る

     

半跏思惟像 ☆ ほし絵

お寺のごはん-Ⅳ

この「お寺のごはん」シリーズでは、日本食の革命、あるいは和食の完成は道元(1200~1253)の精進料理に始まることを述べてきた。
その道元の食の思想で最も大切な点は、「作る人の心得(『典座教訓』)と「食べる人の心得(『赴粥飯法』)を併せ持つことを主張したことである。
それには、作る人も、食べる人も、食の世界で宗教心(魂)を磨こうと呼びかけている。

この道元の精神に呼応したのが利休(1522~1591)である。
利休は、禅の教え ~ 悟りの道には主も客もない、主客平等というところから、もてなす「亭主」側と、もてなされる「」側の心得を併せ持った人を「茶人」とした。
したがって利休以降の茶道では、常にそうした茶人の精神を説いている。
茶人・松平不昧(出雲松江藩7代、1751~1818)も、その一人である。

客の心になりて亭主せよ。
亭主の心になりて客いたせ

たとえば、案内状を出すとき、貰ったときから、もう茶会は始まっているという。
客の心になりて亭主すれば、案内状に相客の名前も列記することも考え付くだろう。そうすれば、貰った人は茶会の様子が想像できるし、一期一会の茶会が楽しくなるだろう。あるいは、客が師であったり、目上の人であったりすれば、迎えに行く気遣いも生まれるだろう。
また、亭主の心になりて客いたせば、案内状に対して必ず返信をするだろう。返事をしない人、遅刻をする人、土壇場で欠席するなどはもってのほか。人さまに迷惑をかけるようでは茶人の資格はない。
といえば、厳しいようだが、日常の常識通りにやっておればいい。難しく、改まることはなにもない、とも言う。
この日常通りというところが、日常が修行という禅の精神であり、そこに禅や茶道に接する意味がある。
つまりは、亭主も、客も、茶の世界で魂(心)を磨こうというわけである。

ところで、私たち江戸ソバリエもまた、蕎麦打ちや食べ方の心得を言っている。蕎麦を打つ人も、啜る人も、蕎麦の世界で心(粋)を磨こうというわけだ。
ただし、この粋さは江戸食 ~ 鰻、おでん、握寿司、天麩羅などすべてがそうかというとそうでもない。蕎麦切だけだ。
茶道が禅を頂くがごとく、蕎麦切は粋を打ち、粋を啜る、というわけだ。

もっとも、この「心」や「粋」は、今の言葉に替えて「マナー」と言った方が分かりやすいのかもしれない。

参考:296話「お寺のごはん-Ⅳ」、第293話「お寺のごはん-Ⅲ」、第287話「お寺のごはん-Ⅱ」、第284話「お寺のごはん-Ⅰ」、

〔江戸ソバリエ認定委員長、深大寺そば学院 學監 ☆ ほしひかる