第285話 身体で作った料理を頭で食べるナ
Aさんとの脳学レポート談義
講座もそうだけどが、体験したことは、何かの形にして残しておいた方がよい。
そんな理由から、江戸ソバリエ認定講座では、最後に2,000字前後のレポートを提出してもらうことにしている。それを「脳学レポート」と称しているが、毎年拝読していると、必ず心に残るものが幾つかある。
ある年の江戸ソバリエ認定式、いわば卒業式のときであるが、印象に残った方
のお一人Aさんに声をかけた。
「優れたレポートは、2,000字で書いたことだけではなく、その水面下にその数倍もの体験・勉強・調査をなさったことが感じられます。」みたいなことを話した。
Aさんの年齢は30代だろうか。レポートの無駄のない文章の運びから、もしかしたらと思ってうかがってみると、やはりライターをされているとのことだった。
それを聞いてから、あれやこれやと話が弾んでいるうちに、彼が「一番戸惑うのが、必死で取材したり考えたりしたのに、まるで辞書をそっくり写したかのように『君はよく知っているね』で片付けられることですね」とおっしゃった。
私も、「分かりますよ。文章の中身についての感想を知りたいというのにね。」
「たぶん褒めたつもりなんでしょうが、こちらとしては何かバカにされたようで・・・、」と苦笑される。
そんな話にもなったが、あまり二人だけで話込むのも何だからということで、他の人たちへのご挨拶に回ることにし、後日あらためて蕎麦屋で会う約束をした。
一か月後、私たちは神田猿楽町の「松翁」で会った。
さっそく、彼は先日の話の続きを始めた。「褒めたつもりが、なぜそうなるんでしょうか?」
「う~ん」と私は、ない智恵を絞り始める。「《身体で書く》と《脳で読む》って、よくいうよね。」
「僕も聞いたことがあります。もしかしたら思想家の内田樹さんが村上春樹さんについて述べていたときではないかと思いますが、」
「そうだったかな。それを私は《動きながら書く》と《座って読む》という風に理解しているんだ。」
「成るほど。その方が分かりやすいです。」
「読むっていうことは、苦労して書いた人の文章を座って、サッと読む。別に皮肉を言っているのではなく、これは至極当然のこと。」
「そうか。だから、『ああ、この人はよく知っているナ』とか、あるいは『こんなことをつまらないことを書いているナ』とか、合否を判定する審判にでもなったような目で見てしまうのか、」
「そう。だから褒めたつもりが、『お前にしては、よく知ってるじゃないか、ご苦労ッ』みたいな上から目線になりがち。」
「成るほど。」
「誰でも、ペンを握ったとたんに文章が泉のごとくに湧いてくることはないのに、」
「キチンとまとまっていればいるほど、そう見える。というわけですね。」
「そう。私自身も〔動きながら書く〕タイプだから、パソコンの前に座っていて書けなくなると、部屋の中をグルグル回ったり、それでも足りなければ家中をウロウロしたりして、またワープロに向かう。でも、たいていはそれでもダメで、電車の中や道を歩いている時に、何かをフッと思い出し、書きたいことや文の一節が浮かんだりしたりするよ。」
「分かります。その仕組はアイディア想起と同じらしいですよ。昨日偶々、テレビで『アイディアはどうしたら生まれるか?』という番組を放映していましたが、アイディアは全く新しいことが天から突然降ってくると思われているけど、そんなことはない。過去に体験したこと、勉強したこと、考えたことが現在の課題とショートして生まれるという。それも歩いているときなどにイキナリ!」
「やっぱりね。文章も、アイディアも、行動の結果であるということになるな。」
「そういうことですよね。」
「そういうことにしておこうか。本当はどうか知らないけれど、」
「ところで、脳学レポートですけど、公開してほしいといわれませんか?」
「ありますよ。でも、基本的にはそうしていません。特別なとき以外は。」
「実は僕もそれに賛成なんですけど、その理由を知りたいですね。」
「第一はね、公開を目的にすると、励みになる人もいますが、萎縮する人たちもあるからですよ。で、結論は、最初だから萎縮する人たちを守っているのです。たとえそういう人たちが少数でも。」
「なるほど、そっちに付くわけですね。」
「第二はね、私たちが話してきたようなことですよ。」
「読む人は上から目線で読みがちだということですか、」
「そう。もちろん感心されることもあるけど、そうでない場合、厳しい批判も勉強だと思ってくれる人ばかりではないでしょうから、」
「とすると、一番目と二番目の立場は同じですよね。」
「そうなりますかね。」
「実は僕は教育学部卒なんですけど、そのスタンスって、教育の基本だと信じていますよ。たとえ少数派でも弱者に付く!」
「かもしれませんが、ベストの方法かどうかは分かりません。」
私は、蕎麦の話、文章の話、絵の話をするときが一番楽しい。だから、その日の「松翁」の蕎麦《二色盛》は特別に美味しかったが、そのとき思った。
もしかして、食べるときにわれわれも《身体で書いた文章を頭で読む》がごとく、「身体で作った料理を頭で食べている」のではないだろうか。
そう思っていると、ご主人が揚げた天麩羅を一つひとつ運んできてくれる。そうだった。「ご馳走」の意味も「走る = 行動」だったのだ・・・・・・。
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕