第87話 広重が描く風景としての蕎麦屋
蕎人伝⑥安藤広重
展示場の右の壁に『木曾街道六拾九次』が、左の壁には浮世絵『東海道五十三次』が所狭しと飾ってあった。この絵は全て、広重コレクター・望月義也さんの所蔵品である。
一般に、『東海道五十三次』『木曾街道六拾九次』『名所江戸百景』を「広重の三揃え」というが、望月さんはその全部を蔵しておられるから、驚きだ。もちろん著書も出されている。
去年は『名所江戸百景』を展示されたが、今度は『木曾街道六拾九次』71景を披露されるというので、ご無沙汰の挨拶を兼ねて会場にうかがった。
『木曾街道六拾九次』71景は、結果的には渓斎英泉(1790-1848)と安藤広重(1797-1858)の合作ということになる。木曾街道は「69次」であるが、英泉が「日本橋」を描いていることと、広重が「中津川」を2点描いているから計「71景」になっている。
この続絵は、先ず英泉が1835年から描き始めて24景を遺した。広重は1837年から始め、47景を描き完成させた。これを版元別に見ると、保栄堂18点(英泉17点+広重1点)、保・錦共板7点(英泉5点+広重2点)、錦樹堂46点(英泉2点+広重44点)、である。つまり、版元は保栄堂から錦樹堂へ、絵師は英泉から広重へと移ったのである。「この間に何があったのか?」それに「なぜ広重は2枚の中津川を描いたのか?」この謎を探れば、ひとつの小説が生まれるであろう。しかも「中津川」は2枚とも優れた作品である。そのうちの「雨の中津川」を見ていると雨音すら耳に入ってくるようである。
だいたいが、広重の雨の図には秀れた作品が多い。たとえば『木曾街道』では「須原」の図も有名である。『東海道五十三次』の「庄野白雨」、『名所江戸百景』の「昌平橋聖堂神田川」や「大はしあたけの夕立」、いずれも動画の一シーンを切り取ったような見事な場面である。
なぜ広重の雨の図は素晴らしいのか? 私は、彼が元火消同心だったということから、〝火〟に対する〝水〟に深い理解をもっていたせいではないかと思っている。
ところで、広重には他に面白い癖がある。必ず、しかも何気なく、蕎麦屋を登場させていることである。『東海道五十三次』「保土ケ谷新町橋」では二八蕎麦屋(1833-35年)、『木曾街道』「関か原」ではそばきり屋(1837年)、『名所江戸百景』「虎の門外あおい坂」では屋台の二八蕎麦屋(1857年)、「日本橋通一丁目略図」では東蕎庵という蕎麦屋(1858年)、を描いている。
ここまで一貫していると、広重が蕎麦好きだったことは十分に想像できるというものだ。また、お蔭で当時の蕎麦屋の形態が目で確認できるのである。それを想像するだけで、江戸時代の蕎麦の香りが今ここまで漂ってくるようではないか。
参考:望月義也『広重名所江戸百景』(合同出版)、望月義也『広重・英泉木曾街道六拾九次』(合同出版)、蕎人伝(第62.64.65.70.82話)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕