第109話『韃靼漂流記』

     

~ 中国麺紀行① ~ 

 

 ☆その1

 2010年春のサンフランシスコ行にもご一緒した江戸ソバリエのマダム節子さん(日本橋そばの会主宰)から、「中国の承徳へ蕎麦を食べに行きませんか」とのお誘いをいただいた。BSテレビで放映していた《中国麺ロードを行く ~ 皇帝の麺を求めて》に触発されての企画だという。偶々、私もその番組の再放送を見ていたので、すぐに参加の申し込みをさせていただいた。

 旅行は、承徳1泊、北京3泊(2011年9月9日~13日)。そのうちの承徳蕎麦については別に報告するとして、北京の歴史において前々から気になっている史料があった。それは『韃靼漂流記』である。

 どういう話かというと、徳川3代将軍家光の代に越前の商船が嵐に遭って日本海を漂流し、その結果乗組員が北京に連行された事件である。

 国田兵右衛門、宇野与三郎口述韃靼漂流記』】

 その報告書『韃靼漂流記』の中に、われわれ蕎麦好きにとって大変興味深い記事が書かれてある。

 それは、漂流民たちに与えられた食糧の中に蕎麦粉があったことである。 

 連行された一行が北京城に入った1644年というのは、満州人が立てた清国の3代皇帝順治帝のときだったが、日本人に与えられた食糧に蕎麦粉が入っていたという報告から、清国初期の人たちが蕎麦粉を何らかの形で食べていたことがわかる。

 中国では、よく「北部では粉食、南部では粒食」という。しかし、粉にしたあと、粉のままと、麺にする食べ方があるが、この記録からは当時の満州人=清国人が蕎麦を粉モノとして食べていたのか、として食べていたのかが判断できないのが残念だ。

 また、蕎麦粉を与えられた側の彼らも、それを粉モノとして食べたのか、として食べたのか、記録からは分からない。

 わが国の蕎麦切の初見は1574年(織田信長の時代)、そして江戸蕎麦切の初見は1614年(徳川2代将軍秀忠の時代)である。史料によると、いずれも祝事や寺院というハイレベルな空間での食事だったようである。

 したがって、船頭格のような者なら都などで麺類を見聞きする機会はあったかもしれないが、一介の船乗りたちが普通に蕎麦切を食べたいたかどうかは、疑問である。 

 ただ、上述の中国麺ロードを行く~ 皇帝の麺を求めてによれば、中国北部の承徳の住人が蕎麦を打ち始めたのは第4代康熙帝(在位:1662-1722)のころだというから、3代皇帝順治帝の代でも中国北部の人は蕎麦麺を食べていたことはまちがいないだろう。とすれば、漂流民たちも清国の人間から麺の作り方を教わっただろうかと妄想したりする。

 ともあれ、ここはやはり承徳へ行くしかないだろう。そこで蕎麦打ちを見て、蕎麦を食べてみて、何かヒントになるようなことを感知してくるしかない。

 

☆その2

 それからもうひとつ、このノンフィクションには多くの謎があって面白い。ちなみに、その事実関係と疑問点と想像を列記してみよう。

 1.嵐に遭って漂流したのは頭の竹内藤右衛門以下58人であった。

 2.当時は漂流民たちを助けなければならないという国際法もなかったろう。だから彼らは土地の者に襲われて、うち43人が殺された。

 3.殺された者のうち、頭の竹内藤右衛門とその息子竹内藤蔵以外の41人の名前は分かっていない。

 4.副頭格の国田兵右衛門、船問屋小山屋の弟宇野与三郎、船乗りの藤十郎彦作十蔵蔵兵衛庄三郎五兵衛市三郎長四郎久次郎庄吉次郎孫十郎と竹内藤右衛門の息子藤蔵の召使(少年)の15人が捕虜になった。

 5.捕虜になった15名中14人の名前は分かっているが、藤蔵の召使の名前は分かっていない。

 6.当時の徳川幕府は鎖国政策、前時代の豊臣政権では朝鮮半島を攻略した。中国大陸では清国が大明国を滅ぼしたばかりで、まさに外交関係は難しい時代であった。

 7.そうした環境下に無事15名を帰還させた兵右衛門の指導力と忍耐力は、おそらく後代の大石蔵之助なみの器をもつ人物ではなかったかと思われる。 

 8.その後、三国湊では当主の藤右衛門と藤蔵が悲運に倒れたはずの竹内家が、幕末まで船問屋として繁栄している。

 9.おそらく、藤蔵の未亡人が竹内家再興に尽力したのだろう。

 10.対して、無事帰還したはずの国田兵右衛門、宇野与三郎、藤十郎、彦作、十蔵、蔵兵衛、庄三郎、五兵衛、市三郎、長四郎、久次郎、庄吉、次郎、孫十郎の名前はその後一切三国湊史には表れていない。

 11.おそらく、何らかの事情によって国田兵右衛門以下は三国湊には住めなかったのだろう。

 12.最後に、名前すら分かっていない藤蔵の召使である少年は、越前丸岡藩に召し抱えられ侍になっているが、これまたその者の名前が判明していない。

 13.いずれにしろ、遭難とはいえ鎖国時代に国外へ出た者の物語である。無事帰還したとはいえ、その処置は複雑であったろう。それがこの物語の謎を形成している。 

 

 ☆そんなことをあれこれ考えているうちに、「紫禁城の夜明け」なる拙い文を書いてしまった。

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 江戸ソバリエ協会 正式サイト「国境なき江戸ソバリエたち」

 http://www.edosobalier-kyokai.jp/kokkyou/kokkyou.html

 

 《衷心感謝》 

マダム節子様(江戸ソバリエ、日本橋そばの会主催)、寺西恭子様(江戸ソバリエ講師)、木村佐江子様(江戸ソバリエ)、土屋博一様(江戸ソバリエ)、日本橋そばの会の皆様、李先生と中国語教室の皆様、

参考:国田兵右衛門、宇野与三郎口述韃靼漂流記』(東洋文庫)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる