第146話 蕎麦喰木像

     

蕎人伝⑰親鸞

  古くから蕎麦にまつわる伝承というのは幾つかある。そのなかで確かな事として最初に出てくるのは奈良時代の元正天皇 (680-748)の詔である。これは『続日本紀』に正史として記録されてある。次に有名な話が、親鸞(1173-1262)の蕎麦喰木像であろう。その伝説とはこうだ。

 比叡山で修行中の親鸞は毎夜、京の六角堂で百日参籠修行も行っていた。ところが、仲間の僧たちは「親鸞は毎晩、叡山を抜け出して京の街へ遊びに行っている」と非難した。師の慈円は親鸞の修行を成就させようと一計をめぐらせ、「蕎麦を食べるから、みな集まれ」と声を掛けたのである。前もって親鸞は、自分の姿を叡山杉で彫っていたので、代わってその木像が出席し、みなと一緒に蕎麦を食べた。仲間たちは「何だ、親鸞もいるじゃないか」ということなり、噂はピタリと鎮まった、という話である。

 『親鸞聖人伝絵』を見ると「六角告命」という有名な段がある。1201年に親鸞が六角堂の救世観音の夢告をうけたというのである。だから、蕎麦喰木像事件はそのころのことであろう。

 それにしても、親鸞の師慈円は何という人かと思わずにはいられない。彼は『愚管称』の著者として知られているが、他に『北野天神絵巻』や『平家物語』の作者ではないかともいわれている謎の高僧である。それゆえに、この親鸞伝説にも登場するのであろうか。

 【比叡山ケーブル☆ほしひかる

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 私は、そんな伝説に魅かれて比叡山に登ってみた。ケーブルに乗って下車し、根本中堂へ参る途中、親鸞のその物語を絵にしたものが掲示してあった。もちろん最後の絵は親鸞様が蕎麦切を食べている場面である。

 「ほう!」と思いながら、親鸞が修行していたという無動寺谷の大乗寺に行ってみると、確かに蕎麦喰木像が祀ってあった。「あゝ、ここが親鸞蕎麦喰木像ゆかりのお寺か・・・・・・」と蕎麦通としては感動の瞬間だ。

 ただ、お寺の方は確かにそうだったが、木像は後代になって造られたものだという。「では、伝説の源となった木像は?」というと、法住寺という所にあるという。

 というわけで、下山して今度は京都市内三十三間堂前の法住寺を訪ねた。そこでやっとご対面。「あゝ、この木像が伝説の・・・・・・」と、またまた蕎麦通としては感動の瞬間だ。

 【法住寺-親鸞聖人蕎麦喰御真影☆法住寺の写真より】

 しかしである。ちょっと疑問もわいてきた。「この時代は、1199年に頼朝が急死して間もない鎌倉初期。そのころに蕎麦切はあったのだろうか?」と。しかし、ここでは深い詮索は避けておこう。

 ただ、この伝説には早くも蕎麦と修行の深い結びつきがうかがえる。それが蕎麦の特色というものではないだろうか。

参考:ほしひかる「蕎麦談義」第18話、ほしひかる「親鸞、蕎麦喰木像」(日本そば新聞『蕎麦夜噺第六夜』)、比叡山延暦寺、大乗寺、法住寺、『親鸞聖人伝絵』(東本願寺)、慈円『愚管称』(岩波文庫)、『続日本紀』(学術文庫)、

蕎人伝シリーズ (「蕎麦談義」第146、144、134、132、106、105、104、102、99、91、88、87、82、70、65、64、62話)

電車シリーズ:【比叡山ケーブル】(蕎麦談義」146話)、【都電】(蕎麦談義」123話)、【サンフランシスコのケーブルカー】【ナパのワイントレイン】( 江戸ソバリエ協会サイト『国境なき江戸ソバリエたち』「明日に架ける橋」)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕