第170話 『玉江』の蕎麦料理
《 蕎麦膳 》六
「蕎麦のコース料理」も、最近はわりあい知られるようになってきたが、近代において熱心だったのは『並木藪』の堀田勝三(1887-1956)や『一茶庵』の片倉康雄(1904-1995)であったことは前にも述べた。ただ、このような昔の話をもち出すまでもなく、今の老舗蕎麦屋はじめ、多くの方々も「これからは蕎麦料理を充実させなければならない」と口をそろえて言われる。
そんなとき、トピックとして思い出すのが『柏 竹やぶ』の阿部孝雄さんのお話である。
ミシュランが東京ガイド版を作るとき、「蕎麦はスナックだ」という認識から、最初は蕎麦屋は予定に入ってなかったらしい。それを聞いて阿部さんは、「そんなことはない。蕎麦料理というフルコースがある」と言ってやった。すると「蕎麦屋もレストランなのか。それならミシュランガイドの対象になる」。といった経緯があって、蕎麦屋もミシュランガイドに加わることになったという。
この話のポイントは「ミシュラン」に入ったとか、入らなかったということではなく、世界の中でレッキとしたレストランとして認識されなければ、蕎麦屋の明日は期待できないということにあると思う。
以来、私も微力ながら、「蕎麦料理には単品料理の他にきちんとしたフルコース料理がある」と機会あるごとに述べることにしている。
そのためにこのシリーズも設けているのだが、この度も知人から「蕎麦を食べながら蕎麦料理の話をしないか」と薦められたので、お引き受けさせていただいた。
選んだお店は駒込の『玉江』さんである。先ずは献立書を見ていただきたい。
献立書というのは、料理の種類を並べるだけではいけない。その店の考えが反映されていなければならない。そういう目で見てみると、《そば法度》《早そば》といった珍しい蕎麦料理が目に付く。
《そば法度》は東北の盛岡藩や広前藩の民が食べていたもの、《早そば》は信州秋山郷の民が食べていたものであるという。それを聞けば、ここのコース料理は「地方の蕎麦」を東京に持ってきたところに特色があることが分かる。
ここでちょっとお断りしておきたいことは、「藩の民が食べていた蕎麦」と「郷の民が食べていた蕎麦」とでは少しニュアンスが異なる点である。
盛岡藩や広前藩の蕎麦は、参勤交代で江戸へ行った南部家や津軽家の武士たちが、都会で覚えた江戸蕎麦を自分たちの国に持ち帰って、食べ始めたということが基本にある。それを見た藩の民たちが、武士に内緒でこっそり食べていたのが《そば法度》である。だから、一応蕎麦麺にちかい形をしている。
一方の秋山郷の民たちの食べていたのは農作業の間に「小昼」と称して軽く口にしていたのが蕎麦掻きの《早そば》である。
このように地方の蕎麦には(1)《江戸蕎麦》の流れを組んだ蕎麦と、(2)その土地生まれの蕎麦があるが、『玉江』で供される二つの地方蕎麦がそれを表現している。
余談だが、地方によっては「蕎麦は贅沢な食べ物だ」と言われてきた所と、「蕎麦は貧乏人が喰う食べ物だ」と言い伝えられた地域がある。それを皆さんはよく混同されているようだが、要は江戸蕎麦(麺状)が伝わったものか、その土地生まれの蕎麦掻き状のものかを明確にすれば、いいことである。
有名な《戸隠蕎麦》も元は江戸の寛永寺から伝えられたものであるが、大豆を擂り潰した呉汁をつなぎとしている《津軽蕎麦》も、もしかしたらこれも江戸から伝わった昔日(江戸初期)の《江戸蕎麦》の旧態を温存してくれているのかもしれない。
ともあれ、あらゆる事象と想像力を駆使し、蕎麦や蕎麦料理を観てみれば、「都市は文化を創造し」、「地方は文化を保守する」役割があるようだ。
参考:大森一樹監督『津軽百年食堂』、 《 蕎麦膳 》シリーズ(第170、166、157、154、153、150話、)
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕