<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫言行録」第23回
2017/06/09
第8章・「中内CEOを偲ぶ>(その2)
<サンチエーン時代>(2)
「ダイエーグループ商人塾」
神戸・芦屋六麓荘の中内別邸「満山荘」で開催されていた、ダイエーグループ各社の経営執行責任者を対象にした中内CEO主宰の「ダイエーグループ商人塾」に参加したことがある。
私が参加したのは、「第4期商人塾」である。受講生は17名であった。
1988年(昭和63年)3月から8月までの半年間にわたり、7月を除いて計5回、毎回1泊2日の日程であった。
研修内容は、若手の大学教授やペガサスクラブの専門講師による講義のほか、グループ・ディスカッション、各社の経営戦略などについての発表と質疑などの形で行われた。
中内さんも、時に合宿に参加されることもあった。私が、「キャツチ・セブン・オーバー・セブン」を目指したいと話すと、「それは君の願望だろう。同じ鈴木でも、セブンの鈴木とはえらい違いやないか」」と、冗談のように皮肉を云われた。
あるいは奮発を期待されたのかもしれない。今は懐かしい思い出である。
研修報告を聞かれたり、共に食事し、懇談されることもあったが、その中で、厳しい質問や指導を受けたりした。
これについては、既に≪「鈴木貞夫言行録」(第8回)≫にも書いているので、参照していただきたいと思う。
(桜香る満山荘の庭園にて)
なお、私の 長男・鈴木隼人の結婚式を1990年(平成2年)6月24日・椿山荘で挙行したが、ご多忙の中を中内CEOにご参列下さり、祝辞を述べて頂いたことは、生涯忘れえぬ感激であり、ここに付記しておきたい。
(披露宴でスピーチされる中内CEO)
<DCVS・ローソン時代>(1)
「DCVSの発足」
ローソンとサンチエーンが1989年(平成元年)3月に対等合併し、現在のローソンの前身・「ダイエー・コンビニエンス・システムズ(DCVS)」が発足したのは、ダイエー・ローソン創設15年目、サンチエーン創業13年目のことであった。
その間の経緯については、既に≪「サンチエーン創業物語」(第40回&41回)≫に詳説しているので、そちらを参照されたい。その際中内CEOから格別の配慮をして頂いたことにも触れている。
両社の経営資源を統合し、人材を結集したことが、その後のDCVSの躍進に大きく貢献し、今日のローソンにつながっていることは、否定できない歴史的事実である。
「ダイエーグループ創業祭」
ダイエーの創業30周年を契機に、「ダイエーグループ創業祭」が、1990年代初頭にたびたび開催されたことがある。
阪神淡路大震災発生前のことである。
私は、その都度、招待状を頂き参加させて頂いた。
(週刊ダイエーニュースより)
(中内家墓前にて)
「ダイエーグループ年度方針会」
(1992年度ダイエーグループ基本方針)
(1993年度ダイエーグループ年度方針会レジメ)
「4000店舗記念」
DCVSが1989年(平成元年)に3000店舗で発足してから、店舗開発が次第に軌道に乗り、3年目、1992年(平成4年)には、4000店舗を達成する。
中内さんは大変に喜ばれ、全国の開発担当者を集めて激励の拡大開発会議をパーティ形式で開催、満面の笑顔で激励のスピーチをされた。
下記は、その時のスナップ写真である。
その2年後、1994年(平成6年)8月、5000店舗が実現する。
(ローソン4000店舗達成記念・開発本部激励会より)
「5000店記念・ハワイオーナーシンポジューム」
私にとって、サンチエーンからDCVS、そしてローソンにいたる30年間のコンビニ人生の中で、輝かしく晴れやかで、誇らしい思い出は数多くあるけれども、その中で特に一つに絞るとすれば、何と云ってもやはり「5000店達成記念・ハワイ・オーナー・シンポジューム」(1994年(平成6年)5~9月開催)であろう。
この時の中内CEOは、4回に亘るコンヴェンションでも、終始上機嫌で、最高に気力充実しておられるように見えた。
いつもはありがちな会場設営や運営に関する細かいダメ出しや指摘も、ほとんどなかった気がする。
4回共にご夫婦でご参加されたが、加盟店オーナーさんたちに囲まれて、いつもこやかな笑顔で応対されていた。
これについては、≪「DCVS回想録」(第13・第14回)≫及び≪「鈴木貞夫言行録」第10回≫に詳しく書いているので参照して頂くと有難い。
「ローソン東富士ゲストハウス・オープンセレモニ―の回想」
ローソンゲストハウスは、既述したように、5000店記念事業の一つとして、ローソン加盟店オーナーさんたちの研修と憩いのための場として開設したものである。
DCVSは1989年(平成元年)発足以来、体制を整備し、順調に業績を向上させ、ダイエーグループを支える中核会社としての本格的成長にのり始めた。
従って、ダイエーグループとしても、今から見れば、全盛期に向かう勢いがあったと思う。
ゲストハウスのオープニングセレモニーは、1994年(平成6年)8月に、2階・メインダイニングルームで行われた。
ローソン加盟店オーナー代表や工事関係者に加えて、地元の須走町長や警察署長、消防署長などを始め有力者を招いていた。
主催者たる中内さんは、その日は体調でも良くなかったのか、いらついて居られるように見えた。
朝から非常にご機嫌斜めだったのである。
ところが、夕方になると、中内CEOは、「部屋へ来いや。ビールでも飲もうや」と云い出された。
藤原謙次(当時DCVS社長)さんと私、ゲストハウスの室内インテリアを担当して頂いた美人女性デザイナーのミッキ―中安先生と若い秘書などが6~7人だったと思う。
ゲストハウスの部屋で、皆が輪になって座り、ビールを飲みながらの雑談的な話になった。
中内さんは、気を許されたのか、軍隊時代の体験や、ダイエー創業時の苦労話などを、誰に云うともなくに話し出されたのである。
中には、「これまでに俺もダイエーの社長を辞めなければならないと覚悟したこともある。」と、かなり際どい話を、問わず語りに口にされたのである。
藤原さんに後で確めると、初めて聞く話が多かったようである。
私が印象深かく感じたのは、ダイエーホークス球団買収の経緯や福岡ドームやホークスタウン開発に伴う秘話であった。
その中で、特にこの年、つい3カ月前に、若くして急死した鈴木達郎さんの名前が、「達郎がこう云った」「達郎が取り次いだ」「達郎から電話がきた」とかの表現で、何度も出てきたことであった。
鈴木達郎さんは、中内CEOの信頼が厚く、右腕・懐刀と云われた元ダイエー専務である。
今にして思えば、鈴木達郎さんの不在が、中内さんの心を揺るがせていたのかもしれないと思う。
そのことは、≪「DCVS回想録」(第13回)≫にも、触れているので、参照していただきたい。
飲むほどに、中内さんは上機嫌となり、「軍歌でも歌おうや」と、『討匪行』を歌い始められた。
【 どこまで続くぬかるみぞ、三日二夜も食も無く、雨降りしぶく鉄かぶと
既に煙草は無くなりぬ 頼むマッチも濡れ果てぬ 飢え迫る夜の寒さかな
嘶く声も絶え果てて、斃れし馬のたてがみを 形見と今は別れきぬ
敵には有れど亡骸に 花をささげて念ごろに 興安嶺よいざさらば
さもあらばあれ日の本の 吾はつわものかねてより 草蒸すかばね悔ゆるなし 】
しみじみとした声であった。
『討匪行』は軍歌とはいっても、輝かしい勝利を誇示し、勇ましい武勇を喚起する歌ではない。
むしろ戦争の不条理や残酷さ、悲惨さ、兵士たちの苦脳や哀しみ、絶望を秘めた歌である。
戦時中、軍国少年であった私は、覚えた軍歌の一つであったから、小さな声で中内さんに和した。
するとミッキ―中安先生は、「よくそんな歌を知っているわね」、と私にいわれた。
『討匪行』を歌い終えると、中内さんは、これまで聞いたことのない「軍歌」を大声で歌い出された。
私が、「それは何という軍歌ですか」とお尋ねすると、「関東軍重砲連隊歌や」といわれた。
次いで、『麦と兵隊』を歌われた。
【 徐州徐州と 人馬は進む、徐州いよいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返えりゃ お国訛りの おけさ節
髭が微笑む 麦畑
行けど進めど 麦また麦の 波の深さよ 夜の寒さ
声を殺して 黙々と 影を落として 粛粛と
兵は徐州へ 前線へ 】、と続くあの歌である。
中内CEOは、20歳で初年兵として召集を受け、満州の関東軍に配備され、戦況の悪化でフィリピン・ルソン島防衛に送られる。
上陸寸前に輸送船が撃沈され、重砲兵としての装備を失いながら、命からがらルソン島に上陸、アメリカ軍との過酷な戦闘を体験されたという。
圧倒的なアメリカ軍の物量に如何ともすることができず、生き残りの敗残兵として山中を放浪し、筆舌に尽くしがたい飢餓地獄を生き延びたといわれる。
敗戦後、復員できたのは、20歳代後半のことであった。
今から思えば、中内CEOは、帰らぬ戦時中の青春を回顧し懐かしんで歌われたというよりは、戦後、流通戦争の真っ只中を戦い抜いて「未だ戦場に在り」の自らの心境を、この歌に託されたのかも知れないな、と想像している。
この日、故松岡康雄(当時DCVS会長)さんは所用で不在であったが、軍歌の最中に、私の携帯電話に「親父さんのご機嫌はどうや」と云って電話をかけてきたのである。
「今軍歌を歌っているよ」と伝えると、「え、軍歌歌ってるの。機嫌治ったんか。それは良かった」と喜んでくれたのも、今は忘れえぬエピソードである。
『討匪行』を歌われた中内さんの深層心理に迫るとすれば、人生の基礎を築くべき感受性豊かな20歳前半に、逆らい難い戦争という時代の奔流に巻き込まれた人間の過酷な運命を、必死に乗り越えようと壮絶な悪戦苦闘を貫いた人生、という気持ちで、中内さんはこの歌を歌っておられたのかもしれない。
中内さんは、日本の流通革命の先兵として、時に猛烈な闘志をむき出しにされることもあったが、流通業、特に小売業は、平和産業そのものであり、平和なくして繁栄と存続はあり得ないというのが信念であり、本質的には、筋金入りの平和主義者、反戦主義者であったと、私は確信している。
(以下次号「鈴木貞夫言行録」第24回に続く)
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