第177話「美しい日本の私」
食の思想家たち 十、由紀さおり
「ルン・ルン・ルル・ル~♪ ルン・ルン・ルル・ル~♪」
由紀さおりさんのすき透るようなスキャットがテレビから流れる。
平成24年12月31日、大晦日恒例のNHK紅白歌合戦の番組だったが、彼女だけ特別にアメリカ・ポートランドからの実況だった。
由紀さんの歌がヒットしたのは、私が社会へ出て間もない昭和44年(1969年)のことだった。以来、歌手、タレントとして活躍されていたが、昨年ピンク・マルティーニ氏とコラボした「1969」が大ヒットし、その歌声は世界中に流れた。
ただ、彼女は何処の国に行っても、日本語の歌詞で歌うという。日本の歌だから、日本語の美しさを知ってほしいという願いからである。他の歌手にはない信念であろう。
そう思って、最近の歌を聞いていると、「つ」を「トゥ」、「え」を「イェ」、「し」を「スィ」と発音する人が多い。たとえば「伝えて ほしい♪」という歌詞は、「トゥタ イェテ~ ホスィイ~♪」となる。こうした現象をある国語学者は「現在の歌手は日本語を破壊する悪魔」と呼ぶが、その震源地は「ワープロのローマ字入力だ」と私は思っている。「つ」を「tu」などと入力、思考していれば脳の回路が〝和の感覚〟からずれてくるだろう。
ワープロの悪弊は発音ばかりではない。字自体にも影響を及ぼした。
たとえば、「蕎麦を打つことができない」は「そばをうつことが出来無い」という具合に、意味のある名詞や動詞をひらがなにし、一方ではまったく意味のない漢字を使ってしまう、外人級のチグハグ現象が起きたのである。
おそらく、「そば」と打ってみて変換のキーワードを押したら、「蕎麦」という字が表示されたけれど、小学生ていどの国語力では読めなかったから、「そば」にして、次に「できない」と打って変換したら、「出来無い」が表われ、これなら読めるとして使ったからであろう。
日本語というのは、目と耳で理解することができる二重構造になっている。だから、「蕎麦」の字を眺める(目)だけで理解できるのである。それを外人並に読むこと(耳)ですませようとして、「そば」とヒラガナにしてしまうと、「蕎麦」なのか「傍」なのか、混乱が生じてしまう。
変換キーの悪弊はまだ続く。「後姿」は「後ろ姿」に、「気持」は「気持ち」にと、オクリガナにも影響し、日本語が壊れてきている。
そういえば、忘れもしない、あれはパソコン ― そのころはソード社のパソコンが日本初だった― が机上に置かれ始めたころだった。「なぜキーボードはこんな配列か、アルフアベット順にならないのか?」と尋ねたら、その専門家はせせら笑うようにして、「これはタイプライターでよく使われる文字が真ん中に配置されているのです。チャンと理屈があるのです」と、日本人とは思えないような返答を平気でしたものだった。
戦後、占領軍が日本の文字、つまり漢字、ひらがな、カタカナの使い分けに頭を悩まされたため、日本の文字を廃止し、「読む」だけのローマ字にさせようとした歴史があるが、今や日本人自らが「固有の文字を持つ民族国家」の大原則と誇りを崩そうという危機にあるのである。
そんな流れを横目に見て、幼いころから日本の童謡や唱歌など正統な歌を歌ってきた由紀さんだからこそ、日本語(日本文化)を守ろうとする覚悟が醸成されてきたのだろう。
私たちは経済をグローバル化しても、文化はできるだけグローバル化してはならない。そのためには、危なくなったら戻る勇気も持たなければならない。
ややもするとわれわれは「それも時代だ」と考えることが〝前向き〟のごとく錯覚してしまうが、それは自分に信念がないことの裏返しともいえる。
そしてその信念は伝統食文化においても然りである。それ故に、美しい日本語を大切にする彼女を思想家列伝に加えてみたいのである。
参考:川端康成『美しい日本の私』(講談社新書)、
「食の思想家たち」シリーズ:(第177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕