外食烈伝(その根底に流れるもの) {二歩}

      2016/08/19   執筆者:編集部

〈黎明~開拓期〉昭和50年代(新しいタイプの居酒屋台頭)

次いで昭和50年代に入り、今までの歴史にはない、全く新しいタイプの「居酒屋」が出現、明るい店内と屈託のない店舗が人気となり、若い世代にも受け入れられ、大きく伸長していった。当時の居酒屋と言えば、「おっちゃんたちの憂さ晴らしの店」といった雰囲気から、若い人はもちろん、女性客など皆無の状態で、全くと言っていいほど毛嫌いされ、店には近寄られなかったのが事実。その間隙を縫ってスタートしたのが、奇しくも北海道から進出、後に居酒屋御三家と言われた「つぼ八」、「村さ来」、「いろはにほへと」の居酒屋。しかし昭和50年代当時の都内近郊の状況は、老舗の「養老乃瀧」や「函館赤ちょうちん」、割烹居酒屋「大庄チェーン」、焼き鳥の「鮒忠」、「落人焼 平家」、「駒忠」、「雛忠」、「天狗チェーン」、「祭りばやし」、「すずめのお宿」、「鬼無里ブレーン」、「夢の居酒屋 太郎丸」、大阪からは「丸忠酔虎伝」など群雄割拠の時代であった。こうした背景の中、新しいタイプの居酒屋が人気沸騰したのは、当時のサラリーマンやOLの飲食行動の変化が大きな理由となっている。それは、モーレツ社員が多かった時代、各企業の午後5時の退社時、従来は「喫茶店」などが待ち合わせの場となっていた。その待ち合わせの場所が新しいタイプの居酒屋にとって代わり、恋人たちはもちろん、女性同士や、サラリーマンのグループまで惹き入れ、瞬く間に急成長、居酒屋チェーンとして300店、500店、1000店へと成長していった経緯となっている。

この流れの根幹がこの後も引き継がれ、繋がっており、昭和60年代・次の世代の居酒屋が出現していく要素ともなっている。また、成長の軌跡の中に新しい酒の飲み方提案があったことも見逃せない。それは従来の居酒屋では、定番として、日本酒、ビール、ウイスキーが主流の状況だった。他に焼酎もあったが、下町の労働者の飲み物と片付けられていたのが事実。そこに新たな提案の"ハイサワー""レモンサワー"などの酎ハイが台頭、若者たちにウケ、大成長を遂げていった。