第376話 私たちが愛する《津軽そば》
2016/09/21
少し前まで、自宅近所の都電が走る側に「生粉打ち亭」という蕎麦屋があった。
その店には《江戸蕎麦》と《津軽蕎麦》という品があった。
その後、店主は亡くなられたが、生まれが日本橋人形町だったので、その思いを《江戸蕎麦》という言葉に込めたということだった。
当時、《江戸蕎麦》と言っている人はいなかったので、私は「江戸の蕎麦の総称として、《江戸蕎麦》という言葉を使わせほしい」と申し入れたところ、「いいよ」と快諾されたため、それが【江戸ソバリエ】のネーミングの由来となったことは、これまでもあちこちで話していることである。
今日の話は、もう一つの《津軽蕎麦》の方だ。
《津軽そば》は、簡単にいえば呉汁を使って打った蕎麦だ。そんな郷土蕎麦みたいなものが、なぜこの店にあるのかというと、店主の奥さんが青森出身らしく、そのオヤジ(義父)さんに《津軽蕎麦》の打ち方を教えてもらったからだという。
ということは、《江戸蕎麦》と《津軽蕎麦》は「夫婦善哉」みたいなものじゃないかと、からかたこともあったが・・・。
そのころ私は、蕎麦研究家の伊藤汎先生という方から「《寺方蕎麦》の出汁は大豆でとる」と聞いていたので、「大豆出汁と呉汁と兄弟分ではないか」と思ったりして、なら現在郷土蕎麦とされている《津軽蕎麦》の由来は《寺方蕎麦》ということになるのではないかと考えたものだった。
つまり、江戸のいろんな物産、風習は、たとえば参勤交代などで江戸での務めが終わった地方の武士たちが田舎への江戸土産として持ち帰った例はたくさんあるが、この蕎麦も江戸から持ち帰った「大豆つなぎの蕎麦」だった、と考えるのが筋であろう。
元来、物事というものは一所に留まらずに必ず流移するものである。地方のものが都市に迎えられたり、都市のものが地方に伝わったりする。しかしながら、後者のケースが圧倒的に多い。それが「都会の力」というものだ。
風も水も、情報も文化も、高い所から低い所へ流れる。《出雲蕎麦》も《戸隠蕎麦》も《わんこ蕎麦》なども、そうした経緯をもつ蕎麦だ。
と、いうようなことを青森出身の方にお話したことがあるが、その方は「《津軽蕎麦》は津軽で生まれた郷土食です」ときっぱり否定された。その目は「私たちが愛する郷土蕎麦にケチをつけけるのか」と言っていた。「郷土愛」というのは強いものだ。
暫くの間、そんなことがあったことを忘れていたが、先日久振りに思い出させるようなことがあった。
それは「全麺協20周年記念」の会が千代田区内の某会館で催されたときだった。
全麺協という他の団体の催事ではあったが、江戸ソバリエのYさんとKさんが司会進行などで大活躍されていた。
私は「江戸ソバリエは人材が多いから」とわがことのような顔をしながらお二人の活動に満足の目を向けていた。
会場では多くの人とお会いしたが、北海道のSさんともお会いした。五、六年振りの再会だった。彼は、ソバリエ認定事業の賛同者で、「北海道にもソバリエみたいなものをつくれ」と若い人に発破をかけている人である。年は80歳代だろうか。元は江東区出身だというSさんが雑談の途中で突然こんな話をしてくれた。
「うちの爺さんが言っていたけど、昔はつなぎに大豆を使っていた。」
「そうなのか。まさに《寺方蕎麦》ではないか!」
それに先輩格の韓国の《冷麺》だってもともとは緑豆でつないでいたというから、「大豆つなぎ」はありうることである。
訊いてみると、「爺さん」というのは「幕末の人」らしい。
「やっばり、江戸時代はそうだったのだ!」
「生き証人」とは、このことだろう。
「生粉打ち亭」のご主人と会ってから16. 7年、今日のSさんの話で持論がつながったと感動した一瞬だった。
〔文・絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕