第607話 わが氏族、千年の流移
~ 父七回忌のお斎にて ~
父の七回忌のため帰郷した。
故郷佐賀市内にある実家はすでに解いて更地にしているため、宿泊はいつも旅館かホテル。今回は近所にあるホテルニューオタニにした。
朝食をとって部屋に戻ろうとしたとき、ある医師とバッタリお会いした。
先生は昨日佐賀市内で健康講座を開き、今日もまた長崎へ講演に行くのだという。
江戸ソバリエには、医療・福祉分野で蕎麦打ちが役立てないかということで設立した「そばスマイルケア研究会」というのがある。
過日は、その先生が名誉理事長をなさっている町田市の病院で、仲間と蕎麦打ち体験教室を開いたことがあった。ご挨拶がてらにそのときの話などをしてから、わが家の菩提寺に向かった。
父は結婚後、佐賀市内の城内という所に家をもったが、元々は有明海近くの村で生まれ育った。菩提寺もその村にある。父の本家は江戸前期ごろから有明干拓に携わってきた一族だという。幸い、わが氏族は平安末期から現代までの歴史がまがりなりにも想像することのできる史料がある。それを観ると、わが氏族には開拓魂が流れていたようである。
物語の始まりは平安末期、遠祖である齋藤基員という武士が一族を率いて武蔵の国比企郡(埼玉県東松山市野本)へやって来た。一族は沼地を開拓して成功し、地名を姓として名乗った。当時の坂東武士の多くはそうやって開墾し、新しい土地と新しい姓を獲得し、ほとんどが頼朝の傘下に入った。
基員もそうだった。頼朝の御家人となり、頼朝の代理として大山参りをしたことなどが『吾妻鑑』に記載されている。
やがて承久の乱後に、基員の一子時員が肥前高木西郷(島原半島)へ、ひ孫行員は高木東郷へ惣地頭として赴任を命じられた。しかしながら、惣地頭といっても、後代のお役人のようなわけにはいかない。当時の惣地頭とは、「現地を自分の力で制圧せよ」という命令であった。援助も支援もなく、一族の武力だけで勝ち抜かなければならなかった。それは弟の義経や他の武士たちはもみな同様で、武士というのがそういうものであった。
赴任地の長崎県というのは、史上常に小競り合いを続けていた地域であった。だから一度も国を統一する王者を生み出したことがなかった。そのために佐賀の龍造寺氏や、南の島津氏に蹂躙されていた。
わが遠祖は、そうした紛争に巻き込まれて史上から消えた。その後も鎌倉幕府は何人も惣地頭を派遣したが、いずれも同じ運命を辿って消滅した。
だが、どっこい氏族は消えても、人間は生き続けていた。
菩提寺の過去帳、1667年(江戸時代)の条に、突然檀家一号とし弥右衛門の名が記録された。どうやら、末裔は島原半島から同じ有明海沿岸にやって来て、開拓に従事、ここで新天地を切り拓いたようだ。
現に、有明沿岸には先ごろまでご先祖の名前の付いた堤が幾つかあったという。だが、今はその場所も分からない。何しろ辺りの景観には昔の面影は微塵もない。私が子供のころには川や海には船が数珠つなぎで停泊してしたが、今や村は佐賀市内に編入され、佐賀国際空港ができたりして、近代の田園風景に様変わりした。
そんな佐賀に生まれ、佐賀で亡くなった父の菩提は佐賀で弔うのが一番だろう。妹たちもそう思ってくれるのか、毎回遠い所から集まってくれる。
この日、お寺さんが済んで、お墓参りをして、お斎は明治22年創業の老舗旅館「あけぼの」というところにした。ここは料理がおいしいのは当然だが、ほっとする何かがあるから、時折お世話になっている。
ところで、今回「あけぼの」を訪れて、《貢姫御前》という料理があることを知った。佐賀藩主鍋島直正公の長女貢姫ゆかりの古文書をもとに佐賀女子短大と佐賀商工会議所の協力を得て、佐賀の幸を食材にして復元したという。
そこで思った。そうか、ここの料理にほっとするのは佐賀の幸を活かした、佐賀の味のせいかもしれない、と。
そういえば、楠本憲吉は「お料理の三風」と言っている。材料のとれた土地風土、その材料特有の風味、器・色彩・盛付などの料理の風景ということだ
それに気づいたら、何かの機会にあらためて《貢姫御前》というのを頂いてみたいという楽しみが出てきた。
最後に付記するが、下の妹の末っ子の姪が来春1月におめでただという。
子供は未来の宝、自分のことのように嬉しくなった。
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる〕
写真:山中純子