第732話 大田南畝の深大寺
2021/08/18
~蕎麦の記~
☆大田南畝
江戸中・後期ごろの文化人大田南畝の話です。彼は、蜀山人、四方赤良などの幾つもの名前をもって和歌・狂歌から随筆まで何でも手掛けた江戸文化を代表するような人物でした。とうぜん蕎麦についても一文を遺しています。
大田南畝の本名は大田七左衛門(初めは直次郎:1749~1823)、牛込仲御徒町(新宿区中町36~38)の御徒組屋敷で生まれました。現在の中町には「蕎麦の膳 たかさご」などがあります。御徒というのは歩兵として戦う最下級武士の家柄です。父は貧乏で実直で信心深く、平凡な一生をおくった人です。なのに、息子は、国学・和歌の師である内山賀邸や、漢学の師である松崎観海らから秀才と讃えられるほどでした。母親が利発だったといわれていますから、その血筋を引いたのでしょうか。とくに賀邸は狂歌も好んでいたので、それが若い七左衛門に影響を与えたようです。
そんなわけで七左衛門は早くも19歳で『寝惚先生文集』を刊行しましたが、これが大受け、この後の七左衛門は本分の国学・漢学に優れた大田南畝として、また滑稽文学・狂歌師の大田蜀山人として江戸中で高い人気を博するようになりました。時はちょうど田沼政治が始まったころです。彼は日々、上層階級や金持や芸能界などの文化人たちと狂歌会や酒宴などの交遊に興じ、また遊女や芸者に熱を上げ、生涯に少なくとも4名の愛妾を抱えていたといいます。今でいえば、高度経済成長期、サラリーマンでありながら副業で人気になって銀座の高級クラブで各界の名士たちと遊興のかぎりをつくしたということでしょうか。しかし、七左衛門の人気の秘密はそれだけではありません。一方では庶民たちと祭りや花見で騒いたりもしたのです。かと思えば、せっせと筆を走らせていました。ただ、七左衛門の支援者には田沼派の重鎮がいたりしましたので、田沼失脚のころは、しばし筆を折っていた時期もありました。その後の詳細はここでは省きますが、それであっても大田七左衛門の本職は一介の下僚の身という不思議な人物でした。
時は流れて七左衛門が耳順を迎えた年、玉川巡視の命が下されました。この年は関東一円が大雨に襲われ、河川氾濫や堤防決壊などの被害甚大で、その災害復旧工事の視察のために派遣されることになったのです。研究者の間では、上司や同僚が直次郎の才能や境遇をやっかんで、閑職的な仕事に追いやったとの見方があるそうです。それはそうでしょう。優秀で、かつ風格も備わり、金を稼ぎ、大名や有名人たちと通じる豊かな人脈、そして美食や美酒や美女に囲まれる毎日、小心者の上司は快く思うはずがありません。というよりか扱いづらい人物なわけです。
しかし不思議なことに、七左衛門はそれでも下級官吏職の身から離れようとはしていないのです。愚直に生きた父に倣って、息子として譲り受けた職を全うしようとしたのでしょうか。それとも才に恵まれなかったというわが子や孫がその職に着くまで頑張ろうとしたのでしょうか。とにかく彼は死ぬまで下級役人の席にいました。
☆玉川巡視
1808年の暮、七左衛門は野羽織半天に股引姿で中間4人を従え、自宅の小日向金剛寺坂(文京区春日2-16)を出発しました。
季節は暮れから正月にかけての厳寒真っ只中。玉川の堤防に立てば寒風の烈しさに皮膚も狂わんばかりであったでしょう。しかし七左衛門は辛抱しながら足かけ5ケ月間の任務を果たし、またその巡視行程をしっかり記録しました。
その一つである『調布日記』から、私たちの主題の深大寺や蕎麦について述べているところを拾ってみましょう。
❶12月29日、府中の駅に人を遣わせて酒肴を求める。酒はよし。蕎麦むぎ調しで皆々食う、味ことによろし。独活芽を下物として酒飲み。
七左衛門が飲んだ府中の酒はどういう酒だったでしょうか。大國魂神社の大鳥居前に柏屋という酒屋がありますが、ここは創業1789年とか。時代的には合いますが、どうでしょう。また「蕎麦むぎ」とは「蕎麦」のことです。七左衛門たちは年越蕎麦のつもりで食べたのでしょう。なお「下物 シタモノ」とは肴のこと、現代も武蔵野産の独活は有名ですが、1800年代の初めには府中辺りで栽培されていたのでしょうか。それとも自然物の山独活でしょうか。七左衛門が蜀山人の名前で序文を書いた4代目栗山善四郎著の『江戸流行料理通』(1822年刊)には、独活の田楽、角煮、叩きなどが掲載されていますが、七左衛門たちはどうやって食べたのでしょう。
❷1月2日、上谷保村に天神(国立市谷保 ヤホ)あり、これ谷保天神(ヤボテンジン)といえる像にして神体ははなはだ古拙なり。ゆえに「野暮天ヤボテン」という俗語はこれにて起こるという。
江戸っ子七左衛門は都会人・江戸人であることを自負していました。その自負が〝滑稽〟や〝通〟や〝粋〟などの江戸文化の旗手とならしめたところです。それゆえに〝粋〟と反対の〝野暮天 〟のいわれに関心をもって参拝したのでしょう。
❸2月24日、恋が窪(国分寺市)、大田の名字あり所なれば、一入懐かしく、行っていると、左の小高い所に武野山東福寺(国分寺市西恋ケ窪 武野山廣源院東福寺)あり。
亡父から、大田氏は多西郡(多摩西郡)小郷の恋ケ窪より出た侍と聞いていた七左衛門は先祖のことを偲びながら、里人に尋ねたところ「西坂戸新田の方に大田場という所があるからそれだろう」と言ったと記しています。
七左衛門は、この先祖の地訪問の機会を得たことによって今回の玉川行に意味を見出し、いろいろと思うところがあったのかもしれません。
➍2月25日、七左衛門は布田天神(調布市布多天神)から深大寺村に入りました。
布田天神を経て深大寺村に入れば寺家の屋根見渡さる。上水より分かるる水を越えて、左の方に深砂王の社あり。右の方に入りて池あり。弁財天の社、吉祥天の社あり。二王門の額に浮岳山とあり。門の左に小社あり。また元三大師の堂ありて、額に元三大師と書り。堂前に銅燈籠二基あり。本堂には深大寺という額あり。
奉献備銅燈籠二基 享保六年(1721年)七月三日 |
と彫れり。また池ありて剣立石あり。女人不浄のものを禁ずる制札あり。池の上に鐘楼あり(僧が言う、この地中より掘り出せる鐘なり)。永和2年(1376年)8月15日という文字見えて、その他の文字も静かに読みなば読みわくべし。かねて宝物の品を見んと里正をして言わしめしに、いざと言えば、急ぎ銘を読みさして本堂に入り、客殿に座す、主僧は病重ければ、伴僧宝物を持ち出でて見せつ。慶安2年(1649年)に僧の書きし真名の縁起一巻、享保7年(1722年)11月11日参議右中将藤原公尹書之といえる絵詞二巻を開きて読む。
現在の深沙堂は1968年に再建されていますので、七左衛門の目に映った深砂王の社はそれ以前の社のことです。そこには深沙大王像が安置されていますが秘仏です。この深砂大王というのは、『西遊記』でお馴染みの玄奘三蔵が天竺へ赴く途、流沙河を渡ろうとするときに感得したといわれています。日本には平安時代にその信仰が伝わり、深大寺は開基満功上人自作の深沙大王像を本尊とし、中世には深大寺が深沙大王の霊場だったようです。そういうわけで「深大寺」の名は「深沙大王の寺」というところから付けられたといいます。また池も弁財天も今も在り、吉祥天は蕎麦屋「門前」の店内に在ります。
二王門は茅葺山門ですが、山内で最古(1695年)の建物で今や深大寺を象徴する存在です。慈恵大師良源(延暦寺18代座主;913~985)を本尊とする元三大師堂は深大寺信仰のもう一つの柱です。正月三日に入寂したので「元三大師」の名があります。当寺の像は2mちかくありますから迫力満天、まさに悪魔調伏の力があると信じられるにふさわしい像です。
銅燈籠に記名されている63世覚滇慧暾の寂年不明ですが、七左衛門訪問時より約100年前の人です。
七左衛門が記した「重病の主僧」というのは76世鳳旭のことでしょう。七左衛門は1809年2月25日に訪ねていますが、75世義天周純が先月末(1月28日)に亡くなったばかりのときだったようです。それでもお寺は訪ねてきた七左衛門に宝物を見せてあげています。その宝物とは、漢文で書かれた『深大寺真名縁起詞書』と、仮名で書かれた『深大寺仮名縁起詞書』と、それを絵にした『深大寺縁起絵巻』を指します。
『深大寺真名縁起詞書』は1650年に深大寺57世辨盛によって書き写されたもので、巻末に1646年深大寺火災後に辨盛が古記録や古老の言い伝えをもとに再編したと記されています。これをさらに補って仮名まじり文に書き改めたのが『深大寺仮名縁起詞書』、巻末に1722年参議右中将藤原公尹が書いたものとあります。そして『深大寺縁起絵巻』もそのころ描かれたものといわれています。ただし『調布日記』の慶安2年(1649年)は慶安3年の誤りです。
『縁起』は長文であるため、さすがの七左衛門も書き写すことはしなったようですが、それに住職の病を知らされてはそうもいかなかったのでしょう。
七左衛門は、寺を退出すると、難波田弾正の古城跡、青渭神社(深大寺元町5-17)、虎柏山祇園寺(佐須町5-18)へ立より、宿に帰ってから『深大寺縁起』の大意を記しています。
❺2月26日、折が悪くて、深大寺蕎麦の接待はなかったようですが、その夜に下布田村の主八十右衛門が蕎麦を調じてくれました。
❻2月27日、七左衛門は再び深大寺を訪ねて、虎狛神社(佐須町1-14)、深沙王の社を訪れ、深大寺の鐘楼の銘を写しました。
武蔵国多東郡深大寺 奉冶鋳槌鐘 永和二年(1376年)八月十五日 大工山城守宗光 |
これは14世紀に鋳造した梵鐘です。責任者の弁雲という人は分かりませんが、別当守慧という人は深大寺34世です。
❼さて、七左衛門の仕事も終盤を迎えますが、最後に紹介したいのが有名な「蕎麦の記」です。
3月27日、是政村を出た直次郎は、日野本郷の里正佐藤彦右衛門宅に宿を取ります。そこで彦右衛門に依頼されて書いたのが次の文です。
それ蕎麦は、もと麦の類にあらねど、食料にあつるゆえに麦ということ、加古川ならぬ本草綱目にみえたり。されば手打ちのめでたき天河屋が手並みを見せしこと、忠臣蔵に詳なり。唐土にては一名を烏麦といい、蕎麦切を河漏麺というは河漏津にあるゆえなりと、片便の説なり。詩経に爾を視るに荍のごとしといい、白楽天が蕎花白如雪と言いしも、やがてみよ棒くらわせんの花のことなり。大坂の砂場蕎麦は店の広きのみにして、木曾の寝覚は醤油にことを欠きたり。一谷の敦盛蕎麦は熊谷ぶっ掛け、平山の平じいもおかし。 蕎麦の粉の唐天竺はいざ知らず これ日の本の日野の本郷 |
この「蕎麦の記」に少しの注釈を加えますと、次のようなことになります。
*烏麦といい=かつては烏麦が蕎麦だと思われていましたが、蕎麦はタデ科、烏麦はイネ科ですので違う物です。
*加古川ならぬ本草綱目にみえたり。されば手打ちのめでたき天河屋が手並みを見せしこと、忠臣蔵に詳なり=狂歌師らしく可笑しく調子よく言い表しています。
*河漏麺というは河漏津にあるゆえ=つい先ごろまでそう言われていましたが、「河漏」という津は中国にないそうです。河漏とは押出麺を作る道具のことで、転じて押出麺のことを「河漏」というようになりました。
*詩経に爾を視るに=詩経の「爾の祖を思うことなからんや」の引用です。
*荍は蕎麦のことです。よく似た字に莜というのがあって間違われますが、これは烏麦、燕麦のことで、その麺を「莜麺」といいます。先の「烏麦といい」というのは、字が似ているところからきているのかもしれません。
*蕎花白如雪=白楽天(中唐の詩人)の有名な詩「村夜」からとっています。
*棒くらわせんの花=宗因の「やがて見よ棒くらわせん蕎麦の花」からとっています。
*周茂叔=北宋時代の儒学者狩野正信(室町時代)に「周茂叔愛蓮図」の絵がありますので、それからとっています。
*四国町=三田四国町(現在の芝)のことです。
*小石川の蕎麦切稲荷=小石川澤蔵司稲荷のことです。七左衛門の金剛寺坂宅から近い所です。現在もあります。
*船切=麺を茹でる前に生舟(容器)に並べたものを指します。ちなみに、麺類は昔、菓子屋が作って船切重詰にして売っていた、とよく言われていますが、その言い方が「らしい」とか、「と聞いている」とかだけでなかなか具体多的なことは分っていません。関連して、菓子屋の麺は蒸していたということもいわれますが、いつの時代のことなのか具体的なことは一切分っていません。
大田南畝が知識人であったことはまちがいありませんが、江戸時代における蕎麦の知識については限界があることを頭に入れておいた方がいいと思います。そのうえで、この「蕎麦の記」は、名の通った大坂の砂場、木曾の寝覚蕎麦、播磨の敦盛蕎麦を除いて全て江戸の蕎麦屋のことを広く紹介しており、そうした江戸蕎麦より、深大寺蕎麦は近在に名高し。日野本郷に来たりて、初めて蕎麦の妙を知れりと讃えて結んでいるわけです。
七左衛門は1809年3月28日の朝、この「記」を彦右衛門に渡してから発ち、4月3日に小日向の自宅に帰り着きました。
この「蕎麦の記」は、七左衛門が佐藤彦右衛門に対して世話になったという気持から書いてあげたのでしょうが、それにもまして江戸の文化人であることを自認していたはずの自分が、還暦の身で玉川の堤防に寒風に震えながら佇んで知ったことは、①わが大田氏の先祖が当地であることもさることながら、②江戸っ子の粋を磨いてくれたはずの江戸の水は、元はといえば、井之頭池・善福寺川・妙正寺川からひいた神田上水(江戸北部一帯の水道)と、深沙大王の多摩川からひいた玉川上水(江戸南部一帯の水道)。つまり江戸は武蔵野によって支えられいることを〝妙を知れり〟と詠じたのではないでしょうか。
☆こいつはたまらん
それから14年後の1823年の4月、七左衛門は愛妾と市村座を楽しみましたが、その3日後に江戸一の文化人である大田七左衛門南畝こと蜀山人は75歳で没してしまいました。
蜀山人は辞世の句を二つ遺しています。一つは大田蜀山人としての句でしょう。
今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
七左衛門の最後の住まいは駿河台でした。現在のお茶の水駅を出た所です。少し前までは聖橋の袂に太田姫稲荷神社(駿河台1丁目)がありましたが、その向い側だったそうです。そこに「・・・こいつはたまらん」の辞世の句が記してありましたが、今はありません。
もう一つは南畝大田七左衛門としての句なのでしょう。
みづのとの 未の年は 宝暦の 十有五にて 学に志す
生きすぎて 七十五年 喰つぶす かぎり知られぬ 天土の恩
古来より日本は『古事記』『今昔物語』や室町期の狂言などに見られるような高度な滑稽さを大事にしてきました。江戸時代に流行った滑稽本や狂歌や川柳もその流れですが、蜀山人は19歳で天明狂歌ブームを起こし、滑稽文学を確立した人物だともいわれています。
ただ残念ながら、近代の日本人は〝滑稽さ〟を笑いもの(下品なもの)として落としてしまったところがあります。それが日本人はユーモアがないといわれるところだったり、うっかり場を間違えれば不謹慎だとか、失礼だとか真剣な眼で言われたり、あるいは洒落を言っても駄ジャレだと冷笑するようになりました
蜀山人の住居跡に建っていた辞世の句が外されたのもそうしたことかもしれません。おそらく蜀山人も、「こいつはたまらん」と高笑しているのかもしれません。
参考
『調布日記』『玉川砂利』(『大田南畝全集』第九巻 岩波書店)参考
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズ
・732話 大田南畝の深大寺
・731話 深沙大王の里
・727話 ねじれ花
・724話 鳩笛
・721話 謎の武蔵国司の乱?
・720話 深大寺白鳳仏はどこから?
・718話 白鳳仏 千年の目覚め
・717話 青春の白鳳仏
・716話 二重の異邦人
・715話 日本の中の朝鮮文化
写真:太田姫神社跡(十数年前までは神社があったが、今はない)、大田南畝住居跡(十数年前までは辞世の句があったが、今はない)
〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕