第842話 月山・西川食堂の《山菜蕎麦》
日本には約17,000の山々があるというが、そのなかで「月山」すなわち「月の山」とは何と美しい名だろうか。まるで別次元の世界であるかのようである。
その月山の麓の西川町が日本橋人形町の「きく家 はなれ」に期間限定の食堂を開いた。名付けて「"雪と山と森の幸"食堂」という。
月山の雪と山と森の幸を使った料理の指導をするのが江戸ソバリエ協会理事の林幸子先生というから、伺った。
椅子に腰を下ろすと、係の人が《月山自然水》を振舞ってくれた。口に含んだら最高に軟らくて美味しかった。表示は「約23㎎/L PH7.0」とあった。
卓の上には、お品書きが置いてある。さて、何をいただこうか。
現代的な西川町の《月山和牛》や《月山モルトポーク》にも魅かれるが、ソバリエとしては、やっぱり出羽三山の民や修験者の食だったかもしれない《山菜蕎麦》を選びたくなる。
蕎麦は、月山産の出羽かおりだという。膳には焼いた根曲り筍が付いていた。戸隠では笊の材料にするが、筍だから食べられる。蕎麦には山菜がふんだんに使ってあった。山の味がして美味しかった。
出羽三山といえば、松尾芭蕉の「奥のほそ道」の旅姿が頭を過ぎる。
弟子の曾良を随行していた芭蕉は羽黒山(標高414m)を訪れた。1689年6月のことである。二人は4日に羽黒山本坊若王寺にて蕎麦切を振舞われ、6日には月山(1984m)、7日には湯殿山(1500m)を巡り、10日に再び本坊にて蕎麦切、茶、酒を振舞われた。当時は蕎麦をつゆに付けて食べる江戸蕎麦はまだ誕生していなかった。
曾良の日記文から推察すれば、茶会席で後段としての蕎麦切、具体的にいえば木椀に蕎麦切がよそおってあり、垂れ味噌の汁と薬味を和えて食べる、いわば江戸蕎麦より一時代前の蕎麦である。当初、茶会席での蕎麦切は上流階級の膳であった。やがてこの上級蕎麦も次第に人々に知られるようになり、山菜とともに山の民や修験者たちにも好まれるようになったのではと私は考えている。そのような物語をもつのが郷土蕎麦、郷土料理というものである。
よって、今日の日本橋人形町の「きく家」は、人々を西川町へと誘う見えない隧道の入口なのかもしれない。本物の《山菜蕎麦》を食べたかったら、月山・西川へいらっしゃいというわけだ。
それが分かるから、美味しい水、美味しい空気と一緒に《山菜蕎麦》を食べましょうというお誘いにのってみようという気になってきた。
追記:郷土の食材や食べ物の歩む道は幾つかあると思う。
その一つが上述したように郷土の思い出と郷土食がともにある法である。この場合《山菜蕎麦》は永くその地に生き続けるであろう。
もう一つは郷土の美味しい食材を都会の一流のシェフたちの腕に託し、それを頂く客たちによってさらに新しい物語の誕生を期待する法である。たとえば、月山和牛のステーキを食べた恋人たちが新しい一歩を踏み出すことがあれば、月山和牛は恋人たちの宝物となって永久に輝き続けるだろう。
〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕