第849話 伊奈石切場跡訪問
2023/11/13
~ 武蔵、蕎麦産業群論 ~
ある年の江戸ソバリエ認定講座の時だった。
受講生からこんな質問を頂いた。「私たち(一般人)が蕎麦粉を購入しようと思ったら、信州へ買いに行かなければなりませんか?」
「う~ん」と蕎麦粉の講師(製粉会社)と私は顔を見合わせたが、「お客様にそう思わせているのは、業者にも責任の一端が・・・」と考え、翌年から一般の人にも蕎麦粉を販売してくれる東京・神奈川・埼玉・千葉の製粉会社のリストをテキストに添付して情報提供することにした。
一方で、江戸蕎麦の講座を主宰している私も、その方から課題をもらったのではないかと思うようになった。
というのは、江戸の蕎麦屋というのは、江戸後期には3000軒以上在ったという。産業論からいえば、江戸の蕎麦屋3000軒の営みを支えるためには江戸近郊に蕎麦関連の産業群(蕎麦の生産、それを粉にするたろの石臼の製造者および水車屋など)が確実に存在しなければならないからである。
ついては、「江戸蕎麦」講座を主宰する者としては、武蔵国の蕎麦産業群を描くのが課題ではなかろうかと思ったわけである。
そういう視点に立ってみると、前々から気になっていた所があった。都下(現:あきるの市)の伊奈石切場跡である。伊奈石切場は、江戸時代のある時期には武蔵の挽臼需要に応えていたといわれている。
たまたま、江戸ソバリエの新嵜さんが、「昔は伊奈に住んでいたから、行くなら付き合ってやる」とおっしゃったので、「伊奈石切場の確認」という長年の宿題を果たすため、この7月新嵜さんと五日市駅で待ち合わせることにした。
現地へ行くには、自宅からだと丸ノ内線、山手線、西武新宿線、JR五日市線と乗り換えて行く。
五日市線は初めて乗るし、武蔵五日市駅も初めての下車である。初めてづくしは遠足みたいに楽しい。下りてから駅舎を振り返ると古風な駅名看板と、アーチ型の高架線路が珍しかった。
新嵜さんとお会いしたときはちょうど昼時だった。彼は「佐五兵衛」という《ほうとう》の店に案内してくれた。
なぜ五日市に《ほうとう》かというと、武田勝頼が天目山で敗死したとき、妹の松姫は八王子に逃がれ、その一行は檜原村を中心に散々吾々住み着き、甲州の食《ほうとう》も《五日市ほうとう》として辺りに土着したのだと、お店の箸袋に書いてあった。
私たちが頂いた《猪豚の茸ほうとう》もお店も、野性味と山里風情の味わいがした。
さて、いよいよ目的の「伊奈石切場跡」へ向かう。
その前に、ここは現在あきるの市という。それなら伊奈とか、五日市とかはどのような位置かと思われるだろうが、昔の伊奈村、五日市町が次のように合併を繰り返し、現在のあきるの市となったことをご理解いただきたい。
・伊奈村+山田村+網代村+横沢村+三内村=増戸村
・増戸村+五日市町=五日市町
・秋多町→秋川市
・秋川市+五日市町=あきるの市
その伊奈村に、平安後期ごろ信州高遠から十二人の石工が移住してきて一村を開き、伊奈石を使って石仏、板碑などにしていたという。
現在の五日市街道は当初伊奈道と言うほど伊奈石を産する村だったのである。それが近世になると檜原村などで産する炭の定期市が五の日に立ち、伊奈道は五日市街道と呼ばれるようになった。変化の理由は明解である。石製品は耐久物、一度購入したら、子の代、孫の代まで残る。一方の炭は消耗品。買い続けなければならない。産業としては炭に軍配が上る。なにせ幕末ごろは江戸の炭の半分を五日市で賄っていたというから、ある意味江戸の燃料を支えていたのは五日市と言ってもいいくらいだ。こんなことに気付くのも現地にやって来たからこそだろう。
新嵜さんの車は、岩走神社、大悲願寺の前を通って、東京都の里山保善地帯となっている横沢入に行った所で停まった。ここから徒歩で天竺山(標高310m)の石切り場跡を目指すため、山にわけ入って行くのである。
案内板の地図には、「伊奈石切古道」と書いてあるが、道を示すのは実線ではなく、点線である。つまり畦道ていどの細い道を上って行きなさいというわけだ。二人はハアハア!と息切れしながら20~30分ぐらい登って行った。すると、小山を削った跡が崖や池になっている所に辿り着いた。削った跡の崖は草木が伊奈石を覆っている。また削り掘った跡は低地になっているから水が溜まって小池になっていた。ここが石切場跡である。
伊奈石というのは、この横沢や三内、伊奈、高尾、網代、日の出町に分布しているが、新嵜さんのお知り合いの土屋先生から頂いた資料によると、石切場は横沢入辺りに集中していたという。
それにしても昔の人はこんな所から石を切り出し運んでいたのである。
想像すればするほど、新嵜さんにあらためて感謝である。たぶん一人ではこの麓までも来れないし、また一人では小山といえど登って行く気はしないだろう。
ところで、われわれが関心をもつ石臼は、東大阪市西ノ辻遺跡(鎌倉中期)かで日本最古の国産粉挽臼が出土している。それからすると、関東における石臼の製造は近世にちかいころだろう。幸い砂岩の伊奈石は石臼に適していたため、伊奈石といえば石臼として名を高めた。
ただ、新嵜さんから頂いた資料(十菱先生)によると、石臼は家庭内に入ってしまって追跡がほとんど不可能であるらしい。つまり石仏はその土地に定着しているから調べやすいが、家財である石臼は移動するから調査として追えないというのだ。たしかにそういうことはある。私事であるが、私もKさんから譲ってもらった貴重な片倉康雄の石臼を某蕎麦店さんにjまた譲りしたことがある。まさに石臼は移動する。こうした個々の移動はなかなか掴めない。
そうしたときは民俗学や言い伝えが参考になる。伊奈石臼の場合、「粉挽き唄」がそれを補完しているといえる。
臼は伊奈臼 新町小麦 挽けば挽くほど 粉が出る ♪
新町とは青梅新町のことであり、良質の小麦が産していたという。
また隣接する箱根ケ崎一帯(瑞穂町)でとれた蕎麦は、江戸に入って「箱根蕎麦」と呼ばれていたから、伊奈の石臼が重宝されたことがわかる。
さて、現地の石切場跡見学、そして頂いた資料などで、伊奈石臼の実力が分かったところで、冒頭の課題に戻る。
江戸の蕎麦屋を支える産業群としての伊奈の石臼産業はどうだったのだろうか。
というのも、石臼の実態的機能は二つある。一つは手挽き機能、二つは水車挽き機能。前者は蕎麦の場合、家族で食べる分を挽く景色が浮かんでくるが、後者の水車は幾つもの搗臼、挽臼を動かすことのできるいわば製粉工場であるから、これが蕎麦屋向けとなる。ここが大事である。
前者の話は各地にあるだろう。それが家庭蕎麦や郷土蕎麦に直結する。
しかし3000軒以上の蕎麦屋を有する江戸の場合は、少し違って蕎麦産業論の視点で観なければならない。つまり武蔵の水車は伊奈の石臼が使われていたという実態を把握することが、次の課題となってくる。
言い方を変えれば、武蔵の水車屋の石臼は何処産が多かったのか?ということになる。
かくて、まだまだ武蔵の蕎麦産業群を追究する旅は続く・・・。
〔文と絵と写真:江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕