第869話 点心料理と共に麺作りが

     

 ある女子大における特別講座から ❸

 〝漠然と〟という、認識にいたらぬていどの認識は、あんがい世間には多くあるものだが、石臼(挽臼)の印象も似たようなところがある。たとえば、石臼を踏み石代わりに置いてある庭の景色はいかにも日本的だと、漠然と思うし、または中野や小金井などの石臼供養塚を見たときもそういう心境にちかいものがある。

 しかし感想文には、石臼の意義についてきちんと述べてあるのがあった。つまり日本人は初めは蕎麦のを食べていたが、が入ってきてからが食べられるようになったという変化を理解されていた一文だった。
 その臼には、搗臼と挽臼の二種がある。前者は主として精米、後者は製粉の役割がある。だから、挽臼は小麦製粉用として中東やヨーロッパで発展していって、日本には鎌倉時代に留学僧円爾によって伝来したというわけである。
 具体的には、円爾が南宋から「水磨の図」を持ち帰ったことから始まる。「磨」というのは臼のこと、つまり円爾が持ち帰ったのは水車で動く臼の設計図だった。そこで円爾の出身地である静岡市がこの図にしたがって復元したところ、写真のように製粉水車小屋ができ上った。
 円爾後から、円爾が創建した東福寺が南宋から石臼を輸入したり、東大阪などで挽臼の国産化が始まっているから、日本でも水車が廻るようになったことは間違いない。このように製粉機を紹介したのだから、円爾は麺作りの道具や技術も持ち込んでいたのであろう。
 はたせるかな、鎌倉時代に描かれた『慕帰絵詞』を観ると、近畿の寺社においては、麺や栄西が持ち込んでいた茶(抹茶)などを振舞っているのである。
 だから別の感想文には、点心料理と共に麺作りが入ってきたこと、足利時代に寺社で麺が食べられ始めたこと、さらには日本ではこのころから冷たいが食べられたことや、日本刀文化から切麺が主だったことまで理解している一文があった。
 円爾後は、それまで粒食(米)だけだった日本人にとって粉食という新たな食生活が開かれたわけである。

《➍へ続く。》

《参考》
ほしひかる『新・みんなの蕎麦文化入門』

江戸ソバリエ認定委員長
和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる