第892話 深大寺寺方蕎麦
深大寺そば学院第11期生の修了式より深大寺を考える
深大寺そば学院では、「古刹深大寺において、歴史と文化、仏の教えにふれながら、蕎麦全般にまつわる知識を身に付け、蕎麦の栽培、蕎麦打ちの実技のなかで、自然と食への感謝の心を深めてゆく」という基本理念にしたがって、❶深大寺の寺方蕎麦、❷蕎麦栽培、❸蕎麦打ちの講座を10ケ月にわたって学び、最後に感想文ないしはレポートを提出することになっている。
その第11期生の修了式が3月に行われたが、提出されたレポートはいずれも素晴らしい内容であったから、少しだけご紹介しよう。
☆種を播くとは、
深大寺そば学院の種播きをミレーの画「種を播く人」に準えている一文があったが、的を得ていると思った。
ミレーのそれは、故郷のノルマンディーで蕎麦の種を播いている父親の姿を描いたのであろうし、そのモチーフはマタイによる福音書の言葉にあると見られている。まさに種を播く行為には、人が人として生きる意味を有しているわけである。
だから、あのゴッホもミレーにならって、種播く人を描いているぐらいだから、ここは日本人の画家も挑んでよいのではと思ったぐらいである。
☆深大寺寺方蕎麦とは、
講座のなかにはグループ発表というのがある。いずれのグループも深大寺寺方蕎麦が中心であるが、そのなかに「深大寺蕎麦は、深大寺周辺の雰囲気の中で味わうもの」と定義している班があった。
たしかに、「江戸蕎麦」とは蕎麦屋の蕎麦、商いの蕎麦である。対して「寺方蕎麦は」共同体の蕎麦、振舞う蕎麦である。よってこれをもう一つの理念として加えてもらいたいと思ったぐらいである
☆深大寺とは、
帰り際に深大寺89世ご住職から『浅草寺 佛教文化講座』という冊子を頂いた。開いてみると、89世の張堂興昭師が令和4年に浅草寺でお話されたことが載っていた。
話の内容は、調布地区の人たちの拠って立つ所としての深大寺については、歴史的な謎が多くてなかなか解明されていないところがあるが、それに対しての住職としての考えが披露されていた。
❶深大寺とは何か?
❷創建した満功上人とは何者か?
❸なぜ深大寺に白鳳仏が座すのか?
これらに対して、興昭師がお答えになられていたのは、たいへん分かり易いものだった。
❷に対しては、貴田正子(ノンフィクション作家)説の「背奈福徳→背奈福満→高倉福信・満功上人」という族譜をご紹介され、
❸に対しては、森田悌(群馬大学名誉教授)説の「橘三千代の持仏→橘諸兄→光明皇后→福信」へ渡ったことをご紹介され、
そのうえで❶深大寺の名は、「高麗大寺→高大寺→神大寺→深大寺」と推論されていた。要するに、深大寺の物語は、高句麗からの渡来人の背奈福徳から始まったというわけである。
ここで気になるのが、日本橋コレド室町の所にある福徳神社である。
往古、当地は「武蔵国豊島郡福徳村(あるいは豊島郡野口村福徳)」だったと社史に書いてある。それなら、なぜ当地は福徳村と呼ばれていたのかというのは分かっていない。
ただ、金達寿(作家)によると、高句麗からの渡来人(高麗王若光)は、まず大磯に上陸し、武蔵に入って行ったという。その人たちの末裔が秩父の高麗神社の高麗氏たちであるが、彼らと深大寺や福信との関係は不明である。そこで金氏が福信のことを尋ねると「あの福信についてはわれわれには全く分かりません」とキッパリと言われたという。
そこで少し調べてみると、高句麗時代には「高句麗五部」という部族があった。
すなわち、内部、北部(または後部)、東部、南部(または前部、上部)、西部(または背奈)の五部であったという。
いずれの部も高句麗国滅亡後に倭国へ渡来しているが、そのうちの高麗神社の系統は北部(または後部)の高麗王若光の末裔であり、背奈の系統は西部の末裔なのであるらしい。
それなら、この西部の背奈福徳らは、大磯までは他の部族と一緒であったが、武蔵国豊島郡に再上陸して深大寺地区金子に入ったのではないかと妄想しているが、どうだろう。
いずれにしても、「深大寺」が拠って立つ所を知ることは深大寺そば学院にとって大事だと思う。
ほし☆ひかる
江戸ソバリエ協会 理事長
深大寺そば学院 學監
《参考》
ほしひかる「ミレー『種を播く人』」(『新そばNo.133』)
貴田正子『深大寺の白鳳物』(春秋社)
筑後則『福徳神社沿革考』(福徳神社)
張堂興昭「寺の縁起と史実のはざまで~深大寺史を中心に~」(『浅草寺 佛教文化講座 令和四年』)
金達寿『日本の中の朝鮮文化 相模・武蔵・上野・房総ほか』(講談社)