第895話 三味線と蕎麦

     

 江戸ソバリエ北京プロジェクトのお仲間の佐藤俊司様から三味線公演会のお誘いをいただいた。それは佐藤様が所属されている津軽三味線小山会の60周年記念公演会だった。
 12時半開場ということだったので、近くの寿司屋で昼食を済ませ、浅草の会場へ向かった。すると、会場になっている建物の周りをお客さんが列を成していた。順に従って入って行くと、階段の所で佐藤悦子さまが待っておられ、席も確保しているとおっしゃった。正直いってこんなにたくさんの方が入場されるとは思っていなかったので、ありがたかった。少し遅れて、佐藤さまご夫婦の娘さんのご家族も来られた。

 津軽三味線・・・、というと大勢の人の三味線合奏が広く知られているが、今日いただいた冊子によると、元々津軽三味線も唄付(唄の伴奏)楽器だったが、この小山会が集団演奏という方式を考案したとあった。
 三味線という楽器は、ご存知の通り情緒的な旋律をチン・トン・シャンと奏でるが、また激しい撥で打楽器のようにも演ずることもできる。そこで小山会は三味線を打楽器のように演奏し、そのうえに大人数での「合奏」というまったく新しい方法を開発したということらしい。

 私は、三味線も蕎麦も共に江戸物だと理解していたが、そこに「集団合奏」ということが頭に入ってきたため、今日はさらに興味深く鑑賞することとなった。  
 「共に江戸物」という意味は、三味線も蕎麦も由来は渡来物であり、一旦は関西に入り、そして江戸に入ってから見事に日本化して花開いたという履歴をもつという意味である。そのうちの蕎麦のことはともかくとして、三味線は1)歌舞伎座や人形劇などの浄瑠璃、義太夫や、2)お座敷での常磐津、清元、新内、長唄、小唄とか、あるいは3)家庭での趣味練習用として使われ、江戸を代表する楽器になっていった。これを言い換えると、歌舞伎、お座敷、家庭で、個人的に贅沢に金銭を伴って楽しみ、やがては江戸文化として花が咲いたともいえるだろう。
 その一方で、三味線は農村にも浸透していった。瞽女唄、阿波踊り、じょんがらなどの各地の民謡や盆踊りをあげればキリがない。そのうちのじょんがらを演奏するのが今日の津軽三味線である。こちらの方はいわば共同体の三味線といってもよい。今日の出演者の伊藤多喜男という人が言っていた。「私のソーラン節は食うや食わずの貧困の中が生まれた唄だ」と。涙も涸れ果て諦めて、もう唄うしかない唄、それが共感をもって広がったということだろう。

 ところで、この一文の題を「三味線と蕎麦」とした。
 そこで、この場に蕎麦を加えてみる。
 たとえば歌舞伎座やお座敷の帰りに蕎麦屋に立ち寄って蕎麦一枚食べて帰るということもあるだろう。そこにはやはり支払いという行為が確実に介在する。
 一方、農村では、年に一度のハレの日に、誰かが蕎麦粉を持参し、誰かが蕎麦打って、それを皆で食する光景になるだろう。ここでは共同体の生活ということが拭い切れない。そこで、前者の江戸の三味線と江戸蕎麦は〝粋〟とよばれ、後者の農村の民謡と郷土蕎麦は〝縁〟に頼り、それで支え合っていたということになる。
 このような都市と田舎では、蕎麦文化や三味線文化の構図は本質的に違うということがいえるだろう。

 さて、本日の小山会の公演会であるが、舞台に並んだ200名ちかくの激しい撥捌きは壮観だった。もし背景に日本海の荒波や大風吹の映像を出していたなら、さらに迫力がましていただろう。
 小山会は、先述のように三味線を打楽器のように演奏し、共同体の縁人の数に変換し、「合奏」というまったく新しい方法を開発した。そのうえで本来の野外音楽を廃して舞台で演奏させたのである。こうして片田舎の三味線を一躍王者の地位に押し上げるという大転換を成し遂げたのである。
 観客もそれが分かるから、壇上の勇壮な合奏に盛大な拍手をおくった。

 ほし☆ひかる
江戸ソバリエ協会 理事長
農水省 和食文化継承リーダー