第903話 深大寺蕎麦の拠って立つところ
~ 深大寺寺方蕎麦 ~
この度、ソバリエの畑さんを介して、調布市観光協会に所属しておられる深大寺ガイドの皆さんに深大寺蕎麦について話してほしいとの依頼があった。
深大寺地区のガイドというある意味、専門的な方々に対し、ガイドの一助となるのはたいへん嬉しいことなので、お引き受けした。
ところで、深大寺蕎麦というと、たいていは❶門前を中心にして並ぶ20軒の蕎麦屋さんのことと思われるだろうが、他に❷作物としての深大寺在来蕎麦があり、❸また歴史的には深大寺で僧侶たちが振舞蕎麦として打っていた蕎麦もある。これが後世、寺方蕎麦とよばれているものである。
❶の門前の蕎麦屋を「町方蕎麦」ともいうが、深大寺の門前には江戸末期~明治頃に1軒あったが、それは蕎麦屋というより蕎麦も供する一膳飯屋だった。それが昭和30年になって蕎麦屋が1軒増えて、現在は20軒ほどの蕎麦屋が存在する。
他県の門前蕎麦といえば、栃木県の出流山万願寺門前に10軒、島根県の出雲大社近辺、長野県の戸隠神社にも散在していることは知られているが、東京でありながら、これほど密集して在るのは珍しいだろう。また❷の深大寺在来蕎麦は、現在有志の方々(一味会や深大寺そば学院の皆さん)が栽培を継続されている貴重な蕎麦である。
しかしながら、ここで大事なのは❶と❷の拠って立つところは❸の歴史的に深大寺の寺方蕎麦があったからこそということについて、当日はお話することにした。
そもそも、江戸における蕎麦切の初出は、『慈性日記』の慶長十九年二月三日(1614年)である。江戸の常明寺という天台寺院で、尊勝院慈性と、薬樹院久運と、東光院詮長が蕎麦切を振舞われている。
このことから、江戸の初期に蕎麦切が京から中山道を通って江戸に伝わったとされている。ただこの常明寺の所在地が不明であるので、私は日記を書いた慈性の行動からみて神田説を唱えているところである。
それはさておき、私たちは江戸における蕎麦切の次の登場が深大寺であることに注目したい。それは1661~73年間に「棒の手を 馳走に見せる 深大寺」という川柳⑴が残されているところからうかがえる。(『柳多留』)
江戸(日本)における蕎麦屋誕生は、1664年ごろと推定されるから、町方蕎麦誕生以前から、江戸の人たちは川柳に残すほどに寺方蕎麦を知っていたことになる。
この川柳の情景を絵にしたのが『江戸名所図会』⑵である。
1815,16年に深大寺を訪れた神田の庄屋齋藤幸孝と絵師の長谷川雪旦は、深大寺の接待茶屋で、住職から蕎麦を振舞われている。
その蕎麦は、「深大寺裏門の前、少しく高き畑にして、わずかに八反一畝(約2400坪)」⑶で収穫された蕎麦である。また『蕎麦全書』にも「境内の二町(約6000坪)ばかりの広さ」⑶だったとある。
では、その蕎麦は何処て製粉されたかというと、深大寺の門前に水車が在った(現在の浅田家が経営する「門前」さんの地)ことが村尾正靖の『嘉陵紀行』(1812~35)に書かれてあり、その水車は天保12年の『深大寺本寺及末寺分限帳』(1841)年)に、「門前地借四軒 内水車壱ヶ所此地代金壱両」⑷とあるから、深大寺所有の水車であったと判断できる。
かくて水車で製粉し、深大寺の僧によって打たれた蕎麦切の風味は、「色潔白にして、味至極甘美なり」だった⑸と、東叡山寛永寺五世公弁法親王(『蕎麦全書』)は語っている。
ここで水車のことを簡単に述べておくが、水車は世界的には小麦製粉のために発明発展したものである。しかしご飯が主食の米の国日本では全国ほとんど精米用の搗臼を動かす水車となった。ところが前田清志(三鷹市教育委員会)は「全国的な視点で東京の水車を見るとき、特徴的なことを一つあげると、それは製粉用の水車が存在していたということである」と述べている。深大寺所有の水車が、「搗臼 8 個・挽臼 1 個」を動かしていたことも肯けるわけである。
麺類史研究家・伊藤汎の研究では、京の相国寺において、水車が存在し、蕎麦切などの麺類が点心として食されていたことが明らかにされている。
これと比べてみると、深大寺の例では、蕎麦畑の面積、深大寺の水車(挽臼一個)、僧が打った蕎麦切の風味、そして何よりもそれ接待風景が絵として残され、そこには料理まで描かれている。
したがって、それら全一組で、幻の寺方蕎麦が描かれている貴重に資料ということになるわけである。
深大寺の仏もそうであろうが、蕎麦もまた、足元に「寺方蕎麦」という拠って立つところがあってこそ、現在の蕎麦状況があることを知っていただければ幸いである。
参考:
『江戸名所図会』
『蕎麦全書』
『深大寺本寺及末寺分限帳』
『嘉陵紀行』
『柳多留』
ほし☆ひかる
深大寺そば学院 學監
江戸ソバリエ協会理事長