第353話 長崎へ、眼鏡橋と崇福寺
久振りの長崎だった。市内を走る路面電車に乗って眼鏡橋と崇福寺を訪ねた。
目的は、既に書き終わっているものの、書いた小説の背景確認のためだった。
本来なら書く前に調べなければならないところだが、やむを得ない時は、書いた後に、現地へ行って確認するようにしている。
☆眼鏡橋の恋人
電車を降りて坂道を中島川の方へ下って行って、眼鏡橋を確認した。
『日本そば新聞』に連載している駄文「小説 粋の構造」で、とある街の眼鏡橋のある光景を書いたからである。
九鬼周造の『「いき」の構造』は、〝蕎麦文化〟の精神の書として、江戸ソバエの必読書だと考えているから、何とかして小説にしたかったのだ。
その中で、私は長崎の眼鏡橋を持ち出し、眼鏡橋で待ち合わせをした男女が恋人になる、という設定にした。
いざ、来てみると、辺りは恋人たちばかり! 眼鏡橋と恋人たち、絵になる光景だとの直感が当たって、一安心した。
☆崇福寺のフルベッキ
それから、坂を戻って黄檗宗のお寺として知られる崇福寺の門を見上げた。
『日本そば新聞』連載の「小説 茶の本」の主人公フルベッキの住まいとして、このお寺を話題にした。
そのとき、「黄檗宗のお寺なら、きっとこうだろう」と勝手に想定して書いてしまい、機会があればこの目で確認したいと思っていたお寺だ。
日本人が創り出した「たかがお茶、されどお茶」の世界の一端を描きながら、物事を純化し、深化させる日本人の能力について触れてみたいと思っていたが、日本の場合、そのオリジナルは常に外来である。そのために小説の中での主人公として、明治の知識を象徴する欧米人を設定してみた。
主役であるフルベッキはNYから海を渡ってやって来た宣教師。1859年の11月7日の夜に長崎湾に入って翌日上陸した。そして迎えに来てくれていたアメリカ聖公会のプロテスタント宣教師ジョン・リギンスとチャニング・ウィリアムズらに、鍛冶町にある崇福寺(黄檗宗)へ案内された。そこがフルベッキの住まいに決められていたからであった。
長崎に来てからのフルベッキは大隈重信らの英語の教師になった。佐賀出身の私は、そのあたりのことを小説にしようと思った。
後に、このフルベッキは明治政府に欧米視察団を提案した。彼の企画は、親しい大隈の派遣を想定していたが、岩倉と大久保がこれに飛び付き、史上有名な「岩倉使節団」として実現した。
その使節団には、明治の第一線の指導者が加わっていた。維新が幕府を倒すスクラップ活動だとしたら、この欧米視察はビルト活動となって、現代日本に大きる影響を与えた。
話を戻して、調査において建物の外観などはネットで検索すれば、今はすぐ分かるものだが、大事な点は広さ、道路の感覚、坂道か、太陽の位置はどうか? などということである。
たとえ、それらを文章にしなくても、どういう所でフルベッキが生活していたかを分かって書いた方がより臨場感が出てくるのである。
実際、寺の中に足を踏み入れてみれば、長崎の黄檗宗のお寺だけあって、日本のお寺とはまったく異なる空気が漂っていた。まるで中国の寺院だ。これなら、日本であっても中国料理を食べていたと考えてもおかしくないということなどが想像できるのである。
すでに小説では、そういう風に書いていたわけだが、現場に立ってみて「それもおかしくないナ」とホッとした。
ただひとつ、感心することがある。この黄檗宗の崇福寺は中国にあるお寺とまるで同じだ。しかし、だからといって日本にある黄檗宗のお寺がすべてそうであるかというと、そうではない。長崎にある寺だけが中国式で、他の県にある黄檗宗のお寺はだいぶ日本化した寺に変化している。
中国文明は、列島を東漸するにしたがって日本化していった。それが純化、深化ということのようである。
〔エッセイスト ☆ ほしひかる〕