第682話 ヨーロッパ各国語の「蕎麦」から
2020/12/26
『世界蕎麦文学全集』物語 24
これまでヨーロッパ各国の蕎麦文学にふれてきた。他にもっとあるだろうが、とりあえずここで終わりたい。
と思っていたところ、米原万里さんの「蕎を伝播した戦争」という作品を思い出した。米原さんはプラハ・ソビエト学校で学び、東京外語大ロシア語学科、東京大学大学院ロシア文学を卒業後、通訳を経て作家となった人だから、言語感覚は鋭いと思う。その米原氏はヨーロッパ各国の「蕎麦」の言葉からこんなことを考られているが、ヨーロッパ編のまとめととしてふさわしいだろう。
・蕎麦は、ロシア語で「グレチーハ」「グレチカ」という。「ギリシャ女」を意味するからギリシャ経由でロシア人の祖スラブ人社会へ入ってきたと思われる。そのギリシャへはアレキサンダー大王の遠征で入って来たのだろう。
(マケドニアのアレキサンダー大王は、紀元前334年に東方遠征を開始、紀元前330年にペルシャ帝国を滅ぼす。東西の大帝国を作った。9
・ポルトガル語では蕎麦を「trigo mouro」という。「ムーア人の小麦」という意味だから、イベリア半島が8世紀から13世紀までムーア人に征服されていたとき、彼らから伝わったのであろう。
・フランス語では蕎麦を「sarrasin サラセン」といい、イタリア語でも「grano saraceno サラセンの穀粒」という。だから十字軍が遠征先のイスラム圏から持ち帰ったのだろう。
(11~13世紀、ローマ教皇は勢力を拡大してきたイスラム教徒を追い払うために西ヨーロッパの諸侯に十字軍派遣の指令を出した。しかし十字軍は200年にわたる勢力争いの結果イスラム勢力に破れてしまった。その結果、ローマ教皇と西ヨーロッパ諸国の王の力は衰え封建制度が崩壊した。)
・チェコ語では「Powhatan ポハンカ」という。ハン=汗だから「汗=モンゴル人の食べ物」という意味だろう。
・フィンランド語では「tattari タッタリ」という。蒙古軍はタタル人を隊列に加えて軍を編成していたが、彼らが持ち込んだとされている。
(モンゴル軍は13世紀、ヨーロッパを侵攻した。)
以上のように米原さんは各国の言葉から「蕎を伝播させたのは戦争」ということを導き出し、題名もそのようにされている。ただし( )内はほしひかるの補足した。
そして米原氏は最後に、スペイン語では蕎麦を「alforfon」「alforjon」といい、「alforjas 革袋」から転じた語であるから、革袋で運ばれる遠征食であると締めている。
私は、この「alforjas 革袋」の話に納得し、かなり気に入っている。
それは、「蕎麦は始原地である中国・雲南をなぜ離れたか?」という問題に対し、「遊牧・狩猟民族が持ち出した」と考え、あちこちで講演したり書いたりしているからだ。この説の光景を絵に描くとすれば米原氏の「革袋」説になると思うから。
ただ米原氏は「だから戦争が蕎麦を伝播させた」という具合に導き出している。それもそうかもしれないが、その点を私は「遊牧・狩猟民族の農業説」をとっている。どういうことかというと、遊牧・狩猟民族も簡単な耕作をしていた。蕎麦の種を播いて、それから遊牧に出かけ、75日してから戻ってきたら、実がなっている蕎麦は遊牧・狩猟民族にとって都合のいい農作物というわけである。実際に満州民族はそうやつていたらしい。
米原説にしろ、ほし説にしろ、人が物を運んできたことには間違いない。
しかし島崎藤村の「椰子の実」ではないが、椰子の実だけが一つ、孤身で漂着しても‘ゴミ’と同じである。その点、人が運んでくれば、作る道具や料理法、食べ方などを伝えてくれる。それが‘食文化’である。
♪ 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
我もまた渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ ♪
短い詩の中に「一つ」「孤身」と二度も使っている藤村もそのことを理解していたと思われる。
そんな考えから、私は北京で講演したとき「蕎麦の路、人の路」という題名にしたことがある。
『世界蕎麦文学全集』
49.米原万里「蕎を伝播した戦争」(『心臓に毛が生えている理由』)
*島崎藤村「椰子の実」
文・絵:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる