第905話 銚子は国のとっぱずれ
銚子の空気を吸いに行こう。
そう思って、JR東京駅総武線2番ホームから10:10発、特急しおさい3号に乗った。
12:00、目的地のJR銚子駅に着いた。ホームには関東醤油の発祥の地らしく、巨大な醤油樽が飾ってあった。
このJRの銚子駅は銚子電鉄の銚子駅と、敷地がひとつになっていて、醤油樽の向こうが銚子電鉄の銚子駅のホームになっていた。
そこへ入って来た電車は〝澪つくし〟号という名の電車だった
空気を吸うことも、銚子へやって来た大きな目的にはちがいなかったが、具体的に言うと『蕎麦春秋』誌に連載している『そば文学紀行』の『澪つくし』編を書くための実地検証だった。
だから電車の〝澪つくし〟号を観たとたん、私はワオーと感動した。これを撮れば、目的の半分は達したようなもんだと思うくらい、予定外の出来事が嬉しかった。
さらに具体的な目的の一つに、園福寺にある句碑を見に行くことがあった。そこは銚子電鉄の観音駅から行けばよかった。
銚子電鉄は、全線6.4㎞の10駅がほとんど無人駅。だから切符は車内で車掌さんから買うようになっていた。これがなかなか人間的よかった。
車両は二両、中高生や旅行者とくに撮り鉄さんが多かった。
私は、二つ目で下車して浜の方へ歩いて行った。直ぐの所に園福寺が在った。見たい句碑は参道で直ぐ見つかった。
ほとどぎす 銚子は 国のとっぱずれ
江戸の商人鈴木金兵衛(俳号:古帳庵)が俳諧仲間の田中玄蕃(ヒゲタ醤油の創立者)に招かれたときの句であり、今日では銚子を代表する句になっている。
また同碑は妻の古帳女の句「行き戻り瓢を冷やす清水哉」も刻まれていた。
古帳庵夫婦が田中玄蕃に招かれたことは初めて知ったが、私が書こうとする『澪つくし』編は、この「とっぱずれ」の句で書き出すことにしていた。とっぱずれとは、絶望なのか、それとも希望なのかを問うつもりであるが、ここで原稿の詳細は言わぬが花であろう。
このお寺にはもうひとつ「飯沼観音」と呼ばれている十一面観音様が在すと聞いていた。せっかくだから一目と思ったが、それは少し離れた観音堂だという。
一旦、境内を出たところで寿司屋の暖簾が潮風に揺れていた。時刻はお昼をとうに過ぎている。お腹も空いているからと白い暖簾を分けて入った。
お品書に昼食用の上寿司というのがあったから、それを注文した。
出された鮨は、鮪、トロ、烏賊、イクラ、玉子焼、鉄火に河童と、ごく普通のネタだった。実は、昨日も私は寿司だった。「続けてよく食べる気になるな」と言われるかもしれないが、昨日の食感が消えないうちの方が勉強になることがあるから、蕎麦などは意識的に続けて食べることがある。
ということで、今日のお寿司は?というと、 昨日のよりネタが肉厚だった。流石は漁師の町だと思った。そしてご飯が微かにあまくて美味しかった。尋ねると「ありがとうございます。とくに何もしてませんけどね」と言うだけだった。たぶん酢に混ぜる砂糖がほんの微かに多いのかもしれないと思った。
お寿司屋さんを出て観音堂に行った。こちらも広い。昔は、この辺り全てが園福寺の寺域だったらしい。
御朱印帳をお預けして、その間に拝観できるようになっているから、近寄ることができた。開基が728年だという本尊の観音様は古の雰囲気がまとっていた。私の御朱印帳は2冊目になるが、すべて今日のように蕎麦関連で訪ねた寺社のものばかりである。
さて、お次は漁師の町外川へ行くために、また電車に乗った。
終点の外川駅に降り立ち、浜の空気を吸ってから、再び折り返す同じ電車に乗った。なぜなら、これを見逃すと、下手すれば1時間は電車が来ないからであった。
昔は、この外川駅辺りの漁師勢力と、銚子駅辺りの醤油醸造家たちが銚子全体の発展を競いあっていたという。短時間だったけれど、おかげで両勢力の本拠地の距離感が分かった。
再び、銚子駅に戻った私は、観光協会で山十の「ひ志お」を求めた。ずっと以前にもヒゲタ醤油の工場見学などで銚子には2回来たことがあったが、そのときも「ひ志お」を買ったことがあった。
パンフレットに、大麦と大豆から麹を作り、これに塩水を加えたものの上に石をのせ、じっくりと一年以上、銚子の自然のなかで発酵熟成させるとある。
醤というのは、飛鳥時代からの調味料である。
当時の貴族たちは、塩・酢・酒・醤で味付をしていた。
このうちの醤は、食材を塩漬けにして発酵させたものだ。食材によって、肉醤、魚醤、草醤、穀醤があり、魚醤は塩辛、草醤は漬物、穀醤は味噌・醤油へ各々発展していった。
私が興味と疑問をもっているのは、穀醤が味噌・醤油へ発展していったとするのなら、醤時代の大麦が、なぜどんなことから小麦を材にするようになったかということであった。だが、現在までの調べでは、なかなか回答らしきものと出会わない。
ところで、私は蕎麦に関することを勉強したり、雑誌などに書いてみたりしているが、学者てはないから、研究の代わりにできるだけ現地を訪れるようにしている。そうすれば、たとえば「ほとどぎす 銚子は 国のとっぱずれ」という句を述べるときも田中玄蕃の銚子での句会を想ったり、また醤油醸造家と漁師連中の意地の張合いを語るときも、二つの勢力の距離を把握したうえで書くことができる。ゆえに、私はけっして研究家ではなく、エッセイストだと思っている。
さて、私の『澪つくし』編は、醤油が世界の調味料へと飛躍するのだという結論を準備している。
そのために先日、江戸ソバリエの仲間とキッコーマンの工場見学をしてきた。そこで私が得たものは、醤油作りの過程ではない。大会社キッコーマンの社員の方々とお会いしたところから感じた世界のキッコーマンの雰囲気だった。
ほし☆ひかる
エッセイスト