第227話 旅館とホテル

     

古民家を愛する会のための、練習曲-

 

☆旅館とホテル

  故郷佐賀に帰ったとき、「たまには・・・」と思って旅館に泊まった。

 その旅館「あけぼの」は、市内の、中ノ小路という所にあり、明治40年創業の老舗であるのに加え、青木繁ゆかりの旅館としても知られている。「ゆかり」というのは、明治43年の春から夏にかけて投宿していた青木が、宿代として「温泉」という画を置いていったと伝えられているが、その画は今この旅館にはない。

 代わりに、画家杉本弘子さんの赤やピンクでダイナミックに描かれたバラやチューリップやヒマワリの油画と、その教え子だというhiromiさんの夢いっぱいの画が廊下中に所狭しと飾られ、階段には村岡平蔵画の大きな裸婦が客を迎えてくれた。

 部屋は八畳の和室である。当然、真ん中に応接台、電灯が部屋の中心にある。電気は明るいから、応接台で仕事もできる。もちろん食事もできる。そして応接台を片付けて布団を敷けば、寝室に早変わりする。これが旅館だ。

 しかしホテルはこうはいかない、部屋のほとんどを大きなベッドが占め、部屋の隅にやや暗めのライトが設置されている。この灯りでは仕事もできないし、本も読めない。明るさに弱い外人は、それでいいのだろうが、われわれに日本人には少々暗すぎる。だから、シャワーを浴びて寝るぐらいしかできない。もちろん、私と無縁の、部屋が広い超高級ホテルなら話は別だが・・・。

 であるのに、街にはホテルが林立し、旅館が減ってきた。佐賀でいえば、森鴎外が泊まったという老舗の「松川屋旅館」もとうとう閉店になってしまったが、これはどこの街でも見られる傾向であろう。

 司馬遼太郎は、ヨーロッパ文明は世界中に教会を造った。アメリカ文明は世界中にホテルを造った、というようなことを述べている。そのホテルのよい点は、お客のニーズに迅速に、正確に対応できるところだろう。

 そういわれれば、ホテルの方が何となく分りやすくなってきたところがある。たとえば、ホテルの名前を聞いただけで、そこがどういうホテルか、どの程度のサービスレベルかまでも想像がついてしまう。

 その点、旅館は泊まってみないと分らない。だからだんだん敬遠されていくのであろうか。よく、こだわりをお客にきちんと伝えているところが良い旅館だという。もしそうであるとしたら、旅館側はもっとそのことを真剣に考えてみるべきだと思う。

 また、類似する傾向としての、和食店についても当てはまる点があるだろう。

  さて翌日、朝食は食堂でということらしい。そこで、浴衣に旅館の羽織を重ね、袂に部屋の鍵と財布と携帯電話を突っ込み、スリッパで食堂へ行った。しかし、ホテルはそうはいかない。一応着替えて、女性ならお化粧をして食堂へ向かうだろう。

 これも欧米と日本では宴の歴史文化が異なるからだ。欧米の正餐は、王様が宮殿に臣下を招いた。日本の武家は、家老が殿様を自邸に招いた。とうぜん欧米では互いのマナーがうるさくなり、日本の殿様は自由(勝手)に食した。加えて江戸時代になると、身分の低い単身赴任者が江戸の街にあふれ、彼らの間では単品料理(鰻、お田、蕎麦、寿司、天麩羅など) ⇒ 個食が好まれた。世界でも珍しい江戸の食文化の誕生となるのであるが、ここでもマナーの必要性は生じなかった。これが日欧の違いである。

 話を戻せば、食堂には杉本弘子さんのご主人である杉本好守さんの大きな絵があった。 それを見ながら、箸を取って、料理を摘もうとしたときに、思い出した。幕末の遣米使節団の話をである。

 昨秋、ニューヨークへ行く前に、幕末の遣米船「ポーハタン号」に乗ってワシントン・ニューヨークなどアメリカの東海岸へ行った日本人の旅行記を読んだ。それには、洋食を食べるとき着物の袖が邪魔になって仕方がないと書き残してあった。

 たしかに、日本では食器を手に持って食べるから袖が器に触れることはまずない。その食器にしても、手前にはだいたいお碗(椀)が並べてあるから、袖が触れる確率は皿より少ないはずである。

 そう。建物、食器、食事の作法、料理、それら全てがひとつになっての食文化なのだ。というわけで、幕末の遣米使たちはエライところに目を向けたなとすっかり感心してしまった。

 さて、ホテルの朝食は自分自身で皿に盛らなければならないが、旅館の食堂では、係の人がお碗(椀)に温かいご飯と味噌汁を装ってくれるし、美味しいお茶も淹れてくれる。

 たまに泊まった旅館は新鮮だった。というよりか、やはり日本人は和の旅館が肌に合っていると思ったものだった。

☆青木繁

 旅館を出て、右にすこし行くと、多布瀬川が清らかに流れている。その多布施川の土手は私が高校一年生のときに通い慣れた道だった。

 その向こうに護国神社と妙安寺、すこし南へ下れば私の実家のある地区の鎮守與賀神社がある。與賀神社は県内最古の木造建築だという。

與賀神社☆ほし絵】

 青木は、その妙安寺小路辺りに下宿していた時期もあったようだ。

 街のいたるところに立つ樟の巨木や、橡、白楊、河柳の濶葉 ― 自分の名前にも似た景色を眺めながら青木繁は、「多布瀬の清流とこの青葉とは佐賀の生命かもしれぬ」と言っているが、それはそうだろう。そもそもが、佐賀の名前の由来は、当地へやって来た日本武尊命が青葉える樟の大樹を見て、「サカ」えると言ったところからきている、と『肥前風土記』に記してある。

樟の樹を見上げる日本武尊命 ☆ほし絵】

お濠端の樟の樹☆ほし絵】

お濠端に並ぶ樟の樹 ☆ほし絵

お濠端の櫨の木 ☆ほし絵】

 そういえば、当の青木も古代への憧憬が非常に強く、「わだつみのいろこの宮」「黄泉比良坂」「海の幸」「日本武尊命」「大穴牟知命」「天平時代」など『古事記』を材にした名画を残している。

 青木の評伝を読むと、それは高山樗牛の日本主義に影響されたためと述べてあるが、私は、幼いころの彼が度々訪れた母の実家の八女の遺跡が脳裏に残っているせいではないかと思っている。八女の岩戸山古墳には裁判をしているところの石像や石人が在る。筑紫君磐井の乱 ― 八女は九州と近畿の古代最大の戦争が起きたところである。そんな話を幼いころ聞けば、古代人の声が耳に残っているだろう。

岩戸山古墳の石人像 ☆ほし絵】

 しかし惜しむべきかな、青木は若干29歳の若さで亡くなった。

 もしももしも、もう少し生きていれば、青木は『古事記』伝絵を描き続けてくれていたのかもしれない。 

 西洋では、『旧約・新約聖書』を題材にした絵画は、ノアの箱舟、ソドムとゴモラ、十戒、失われたアーク、ヨハネの黙示録、最後の審判、受胎告知、最後の晩餐、キリスト降架、キリスト降臨、聖衣伝説、聖杯伝説、マリア、マグダラのマリア、が無数に描かれてきたではないか。ならば、「古事記伝絵」なる分野があっても決しておかしくない。だがしかし、キリスト教徒は世界で22~23億人、それに対して日本人は1億人、うち『古事記』に関心をもっている人は・・・? これではマーケットにならないか!

 「そうだよ。それだけ、聖書には優れた物語がある」という人もいる。「イヤ、そんなことはない。『記』『紀』も、物語性に優れている」と挑んだのが青木繁ではないのか。

 神道・仏教、『古事記』『日本書紀』、お能・華道・茶道・蕎麦切・和食、これらの日本文化を普遍しようとしたのが、青木繁の志ではなかったのか。

 佐賀に来て、そんなことを考えた・・・。

参考:宮永孝『万延元年の遣米使節団』(講談社学術文庫)、司馬遼太郎『アメリカ素描』(新潮文庫)、青木繁『假象の創造』(中央公論美術出版)、蒲原有明「春鳥集」(筑摩書房)、夏目漱石『それから』(岩波文庫)、渡辺洋『青木繁 伝』(小学館文庫)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる