第977話 シベリア鉄道
☆シベリア鉄道
ソバリエの小島さんと地下鉄九段下駅で待ち合わせをしました。
江戸(旧寺方)蕎麦研究会のことで打ち合わせをしようということでしたので、中国に勤務していたことのある彼なら、あそこで昼食にしようと九段下で待ち合わせました。あそこというのは「台湾豆乳大王」という店でした。通りかかったときに見付けて気になっていたのですが、案の定小島さんは、中国・台湾の人たちの朝食について縷々説明をしてくれました。
ここで、話を待ち合わせの場所まで戻します。
九段下駅の地上へ出た所に九段生涯学習会館があります。見るともなく見ますと、「勇崎作衛シベリア抑留体験画展~油絵全88点一挙展示~」というポスターが貼ってありました。
時計を見ますと、あと20分あります。ちょっと覗いてみようと思って会館の中の2階の展示場に入りました。
画を描いた勇崎作衛という人はシベリアで捕虜として3年間過ごして帰国し、その体験を記録に残そうと思って、65歳になって初めて絵筆を取って描き始めたそうです。88点の油絵はすべてシベリアにおける捕虜労働です。遺体も並んでいます。
会場の入口には「写真撮影、どうぞ」と書いてありました。悲惨な戦争を訴えるのを目的として描かれた故人の意志をこういう形で継いでいるのでしょう。
私はシベリア鉄道の絵4枚をスマホにおさめました。
絵には一つひとつ勇崎氏のコメントが添えられています。
一、「シベリア鉄道第一日目の恐怖」ウラン・ウデ(昭和20年10月)
時として食事も与えられず、用便の自由も奪われたシベリアの長旅が続く。二十数日間走り続けて目的地に着く。
二、「少年盗人団」ザバイカルスク(昭和20年10月)
家畜の臭いの残る、長く連結された貨車は北満の廣野をひた走る。満州里を過ぎ黒龍江を渡る鉄橋の音を聞きながら、哀惜と焦燥感に疲れ切って何時の間にか眠ってしまった。目が覚めてみると車外の景観が一変していた。「ソ連領だ!」 列車がかなり走るとガタンと停車してしまった。敗軍の旅はすべて予告なし。盗人集団に襲われた。ボロボロの防寒外套は戦争孤児の集団だった。
三、「巡り来るシベリアの秋」チタ(昭和23年9月)
四、「帰国列車」ハバロフスク(昭和23年10月)
あれほど待ち焦がれていた、最後の心の支えであった帰国の日が、今、現実のものとなったのに、そして帰国列車の車中にあるのに、何としたことか、それほとの喜びがわいてこない。刻々と遠離る北の彼方に、まだ多くの人たちが残されていて、なお永遠に還ることのできない戦友の屍が埋まっていると思えば・・・。
88枚の絵の中で、シベリア鉄道列車の絵の4枚だけでしたが、それで十分な物語になっていました。見知らぬ極寒の地と捕虜生活への不安、その日のうちの少年盗人団の襲撃。しかし勇崎氏は少年たちを責めていません。「ボロボロの防寒外套」姿には同じ敗者の臭いがして、責めることができなかったのでしょう。
そして「永遠に還ることのできない戦友の屍が埋まっている」ことで、3年間に何があったかが想像できますし、「刻々と遠離る北の彼方に、まだ多くの人たちが残されて」いるのは、勇崎氏にとっては戦争がまだ終わっていないことを示しています。
線引きしたり、国境を作ったりするから争いが起こると云った人がいます。
それなのに、大陸の列車というのは、国境を越えて走り続けます。

☆モンゴル縦貫鉄道
シベリア鉄道列車といいますと、オリエント急行とならんで浪漫列車のような印象があります。
昨年(2025年7月)私は、モンゴル国へ行きました。
誘われてその気になったのは、司馬遼太郎が指摘しているようように中国モンゴル自治区とモンゴル国との慣習の違いについてを、自身で理解したかったことはもちろんですが、もう一つスケジュールのなかに「シベリア鉄道1泊」とあったからでした。
モンゴル民族は、遊牧民が蕎麦麺を考案したと見ている私には大事な問題でした。また鉄道は、実際はモンゴル縦貫鉄道でしたが、大草原を走る体験はそうありませんから、いい列車旅でした。
そして帰国前に、ウランバートルのダンバルジャの丘に建てられた「日本人死亡者慰霊碑」に、一行でお参りしました。
ソ連の強さはシベリアの資源の豊かさにあります。
ですから、1945年、旧ソ連軍は旧満州などにいた日本人約60万人を旧ソ連領地やモンゴルに送り込むのです。その中に先の勇崎作衛氏も入っていたのでしょう。
そしてここモンゴルには約14000人を送り、強制労働に従事させたのです。
碑文には、こうありました。
「諸士よ。祖国日本は見事に復興しました。安らかに見守ってください。」
エッセイスト ほし☆ひかる