第363話 視野と視点
「ほそ川」の料理やお蕎麦は最高である。
今日は、江戸ソバリエ講師のM先生とご一緒だった。先生はTV「何でも鑑定団」の鑑定員としてもご登場なさっている陶磁器研究家で、仕事をされるときはいつも和服である。その和服とお蕎麦の組合せもなかなか粋で絵になっている。ご一緒しているこちらが野暮なので申訳ない気がする。
先ずは、水茄子と胡瓜を甘味噌で頂いている間に、ズッキーニの花の天麩羅を待つ。細川さんは何でも天麩羅にしてみるというから、半年毎ぐらいに珍しい天麩羅に出会えるのが楽しい。
天麩羅といえば、最近は《牡蠣の天麩羅》がよく見かけるようになったが、私はそれをあまり好まない。牡蠣フライの方がしっかりとしていて好きだ。でも、細川さんは上手に揚げてくれるから、この店のものだけは食べる。
それから当店定番の《煮穴子》と《玉子焼》、どちらも優しい。修業は厳しいが、本質的には優しい性格の細川さんだから、このような優しい味が出せるのだろう。
ところで、M先生が伊万里焼のご専門であることは、佐賀出身の私にとって嬉しいことである。とくに有名な「古九谷」が、九谷ではなく、実は佐賀の有田で焼かれた焼物という論をおもちであることも自慢だ。
そんな先生に一つ伺いたいことがあった。それは、なぜ日本の食器の材料がバラエティに富んでいるか? ということである。
世界の食器は、だいたい磁器か、金属器か、ガラス器かであるが、日本はさらに漆器、陶器、竹器、あるいは植物の葉、そして陶器にしても魯山人流ではないが、歪んだり、曲がったりした器もある。先刻の《煮穴子》も大きな笹の葉が敷いてあった。
それに比べて欧米の磁器は白磁がほとんどでせいぜい縁が金色などで締められている程度。そして形は正確な幾何学的である。
「やはり茶道の影響でしょうね。でも、その茶道も日本人の自然崇拝から生まれたのかもしれませんね。」と微笑みながら教えてくださった。
そんな話をしているところに、店主の細川さんがご挨拶に見えた。
見比べているうちに、ふと小学校のころの同級生のことを思い出した。そのころ一人のやんちゃ坊主がいたが、思い出したのは細川さんがその彼に似ていたからだったからだろうか。
彼は相撲が大好きで、ラジオの実況放送の物真似をするのが特技だった。当時の担当教師がまたユニークで、生徒の長所を伸ばそうとする先生であった。
先生は、その生徒に授業中だというのに、「相撲の実況放送をやってみろ」と指示した。
普段は悪ガキの彼だが、そのときだけは集中力を発揮して見事に実況放送を熱演してくれた。先生は率先して大きな拍手をおくった。それから彼は皆から一目おかれるような存在になった。
一方のM先生はそのころのクラスの級長をしていた女の子に似ていると思った。理知的な顔に、ゆとりのある微笑みを絶やさない子だった。
そんなことを想っていると、M先生と細川さんは、なかなか面白い組合わせであることに気付いた。一つのことに熱中する者、それらを公平で理性的な目で見ている者。この関係こそが「何でも鑑定団」の図式でもある。
骨董に取付かれた者も、職人も、自己陶酔といえばそうだろうが、自分の世界を作り上げるために奥深い技術をモノにしようとする情熱と根気をもっている。対して鑑定者は製作こそしないが、公平な幅広い知識と鋭い眼力が必要である。そんな対峙関係がM先生と細川さんの雰囲気にあった。
そういえば、亡くなった蕎麦研究家の藤村和夫さんは、蕎麦職人は実践者であり、自分を作るために自己中心的に学ばなければならい。そういう蕎麦職人から物書きになった自分は今、公平という眼を養わなければならなくなったが、この二つは全く別の道だ、とおっしゃっていた。
二つの線は、鉄路のように交わらないけれど、二本別々に並んでいてこそ役立つということだろう。
そう思って、M先生の眼差しを見ると視野が広い。対して細川さんの視点は一点を見ているようにして話す。その違いが印象的であった。
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ 文と絵 ほしひかる〕