第722話 選 挙
先の河井元法相夫妻の買収事件では「広島県民の恥」と多くの県民自身が言っていたぐあいだから、その補選は日本中の人が多少の関心をもっていた。
だが、その結果は、投票率は34%、前回の45%を11%も下まわる低い投票となり、当選は宮口治子氏が37万票、自民党候補は34万票で敗れた。ただ、あれほど騒がせた買収事件にもかかわらず辛勝という結果に県民自身も驚いていたと聞いている。要するに思いのほか自民票が多かったのである。
その後、報道を見聞きしていると、①批判票は投票棄権にまわり、②投票した人は「選挙違反事件は恥とは思うが、だからといって誰に入れる?入れたい政治家がいない」という迷いがあった。
しかし、この投票行動はまちがっている。
①投票棄権は何の効果もない。
よく考えたい。たとえ投票率が低くても、当選した人の勝ちである。批判票には決してならない。
②「投票したい政治家がいない」「誰に投票したらいいか分らない」という声は、広島ばかりではなく、常に選挙の際のアンケートで一番である。
しかしよく考えたい。政治は個人で行っているのではない。党で行っている、さらには与党対野党で行っている。
たとえば、A法案が個人的に反対だと思っても、党が賛成であればほぼ従わなければならない。そして党と党が手を結び、過半数を獲得して、A法案を成立させるわけであるが、だいたいは与野党の対決という図式になる。
つまり政治は数で決まる。具体的には最大多数党である第一党(与党)がA法案(たとえば病院のベッド削減とか、軍備を拡充するとか)を成立させようとすれば、議会では必ず通過する。議員数が多いから当たり前のことである。もちろんいい法案のときもあるかもしれないが、悪い法案のときは誰が阻止するか。その力を議会に与えなければならない。それが民主主義であると思う。その民主主義を発動させるためには、与野党伯仲の数にしておかなければならない。
よく衆院が与党多数で、参院が野党多数の場合を「ねじれ」と言ったりする。しかしこれは第一党から見ればたしかに「ねじれ」であるが、国民の側から見れば民主主義的には正当であると思う。それをこともあろうことか、権力と対峙しなければならないマスコミまでが「ねじれ、ねじれ」と言うから、われわれも間違って「ねじれている」と錯覚してしまうところが恐ろしい。
したがって、選挙とは誰に入れるかではなく、現政権を支持するか、しないかである。もちろんどちらを支持するかはご本人の自由である。しかし棄権という形で不支持表明してはならない。
先日の都議選においても入れる人がいないという声、投票率の低さということであっても、結局は自民党の議席は増えていた。
都議選とはいえ、われわれはコロナやオリパラを迷走させている現政権を渋々でも支持したということになる。ということは、われわれ国民は現状のコロナ禍をまだ受け入れるつもりなのである。
〔エッセイスト ほし☆ひかる〕
写真:庭に咲いた ねじれ花