第752話 蛎殻町の《牡蠣の天麩羅》

     

☆生牡蠣
 「佐賀に行ったら牡蠣を食べたい」。
 と、桐野夏生さんが何かのエッセイに書かれていた。
  桐野さんの台詞を持ち出したのは、佐賀出身の私が言うと手前味噌になってしまうからだけど、佐賀有明海の牡蠣や蟹はうまい。
 有明海の蟹は《竹崎蟹》といって最近は人気が高い。また牡蠣も大きくて美味しい。牡蠣には小さめの「マガキ」と大きい「セッカ」があるが、佐賀の牡蠣は大きいから、牡蠣はみんな《セッカ》と言っている。字は美しく《雪花》と書くから、これだけでも佐賀人の気持は伝わると思う。
  だからなのか、少年のころから私は《生牡蠣》ばかり食べていた。
  それが、大学生になって東京へ出て来たとき、《牡蠣フライ》が好きな人が多いのに驚いた。最初は何となく敬遠していたが、だんだん東京人になるにしたがって好きになっていた。
  ところが近年、《牡蠣の天麩羅》なるものが目に付き始めたので、食べてみたがやはり苦手な感触だったので、遠慮していた。

☆蛎殻町の《牡蠣の天麩羅》
  日本橋浜町の手打ち蕎麦屋「かねこ」にお邪魔した。
水天宮駅を下りて歩いて行くと蛎殻町、浜町と続く。途中に立派な有馬小学校というのがあった。水天宮は久留米藩有馬家から分祀された神さまだから、この有馬小学校も有馬家と関係があるのだろう。
 それにしても今日は青天、秋晴れの空気が気持いい。お蕎麦まで期待できそうな気がする。 
  「かねこ」さんは、ちょっとした用があるで伺うのであるが、何度も来店していてるという日本橋そばの会の横田さんに「それならご紹介してください」というわけでご一緒してもらった。というか、日本橋の蕎麦屋さんを訪れる場合、日本橋にお住まいの彼女に仁義を切ってご一緒することがよくある。
 「かねこ」さんの一階は全てカウンター席、二階が部屋とテーブル席になっている。
  カウンター席が主体であることから、天麩羅が得意だろうことは察した。お品書きを見ると、やはり季節の天麩羅がズラリ、そして問題の《牡蠣の天麩羅》があった。う~ん、どうしよう。
  でも、蛎殻町を通って来たのだから、ここは洒落で「牡蠣町で《牡蠣》」といってみるかという前向きな気持がわいてきたのも秋晴れのせいだろうか、思い切って牡蠣を選んでみた。
  さて、どうだろう。正直に言うと恐る恐る口にしてみた。ン♫ 美味しい。遠慮しいしい食べるとかというのではなく、積極的に食べたい気分になってきた。もっと詳しくいうと、味わいというのは、先に触覚、次に味覚で感じるものだと思う。だから初めて《牡蠣フライ》や《牡蠣の天麩羅》を食べたとき、あの生温い感触の悪さが先にきたものだから、牡蠣の美味しさまで達する気分になれないわけである。ところが、今は牡蠣がもつ海の美味しさが先にきた。なぜだろう。
  1.私が少し慣れてきたせいだろうか、2.職人さんの揚げる技術に秘密があるのだろうか、3.それとも素材がいいのだろうか。たぶん食材の選択もふくめた職人さんの腕だろうが、今日は初回だから、何度か通ったら訊いてみよう。まあ、それにしても私の牡蠣食史において、今日は好い日になったようだ。

☆都会のカウンター席
 話は変わるが、最近カウター席の蕎麦屋さんが増えてきているように思う。 
 日本橋浜町の当店もそうであるが、日本橋人形町にある「蕎ノ字」、それから私がよく行く大塚の「岩舟」、いずれも椅子がよくて、いい雰囲気で、しかも「カウンター席もあるよ」というような脇役ではなく、カウンター席が主体の店である。
  こうしたカウンターというのは、もともと野外屋台の商品の渡し口や、西部劇映画に出てくるバーのウィスキーの立ち飲み、あるいは最近では孤食を代表するファストフード店やコンビニ店の壁に向かった狭いカウンター席というのが一般的光景であったが、最近は質が高まり、ゆとりのあるカウンター席が登場してきている。
 ある女性がおっしゃっていたが小綺麗なカウンター席なら座りたい。またある人が言っていたが、カウンター席は一人でも入りやすい。つまり個食の機会が多い都会では、小粋なカウンター席なら一人でも入るというスタイルのニーズがある。そうすれば誰に気兼ねすることもなく自由な食事時間をもてるというわけである。 
 これは個食の概念を越えた都市文化の世界だともいえるから、江戸ソバリエとしては見逃せない動きだと思う次第である。

〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕
カウンター写真:蕎ノ字 岩舟