第898話 天皇の料理番 谷部金次郎先生のお話から
2024/05/19
昭和天皇のおそばに
令和六年五月のことだった。深大寺そば学院で昭和天皇の料理番谷部金次郎先生のお話をうかがう機会があった。
その前に、蕎麦屋「門前」の浅田様から、「お昼は先生とご一緒に」とのご連絡をいただいた。たぶん「土曜の昼時はいろいろあるから代わってお相手を」ということだろうと思ったから、ご著書の『昭和天皇と鰻茶漬 陛下一代の料理番』(河出書房新社)、『昭和天皇の料理番-日本人の食の原点』(講談社)に目を通してから、丸の内線、山手線、京王線、京王バスと乗り継いお店に向かった。しかし今日は土曜日の五月晴れ。そのためかどこも人・人・人で混んでいた。
谷部先生は、テレビで何度もドラマ化されたことのある杉村久英:作『天皇の料理番』の主人公秋山徳蔵のお弟子さんだった。近々では俳優の佐藤健氏が秋山役を演じていたが、その佐藤氏と谷部先生は他の料理番組で共演したりしたが、健氏は器用で包丁捌きも一人前だと褒めておられた。そのテレビドラマが放映されていたころ、たまたま上野精養軒で打ち合わせがあったが、手元のコースターがテレビの「天皇の料理番」になっていた。秋山徳蔵がパリへ修業に行くまではこの上野精養軒で働いていたことからだ、と後日になって知って納得したものだった。
昭和天皇といえば、「雑草という名の草はありません」。みんな一人一人に名前があり、生命もあるという意味のお言葉である。日常はごく普通の食事を召し上がられていたという昭和天皇らしいお人柄が表れたお言葉として有名な逸話だ。昭和天皇の日常食は、朝はパン食、昼と夕食は、お昼が和食のときは夕食は洋食系、お昼が洋食系のときは夕食は和食だったとのこと。
和の主食は《麦ご飯》。麦と米の割合は二:八。二八といえば《蕎麦切り》の割合が有名であるが、何か美味しさの黄金比のようなところがあるのだろうか。また油っぽい物はあまりお好みではなかったが、《鰻》はお好きだった。
おやっ!と思ったのが《日光湯葉》の乾燥したものを一度水に戻して揚げ、蜜をかけたものが好物だったという話だ。おやっ!というのは、揚げた《日光湯葉》をたまにいただくが、それは煮物用のはずだった。そのことを頂戴した方に話したら、お互に「今度蜜を付けて食べてみようかということになった。
昭和天皇は、お蕎麦がお好きだったことも知られている。
毎月の晦日には必ず《もり蕎麦》を召し上がられたらしい。打つのは谷部先生。蕎麦粉∔強力粉の二八蕎麦を打つ。谷部先生は蕎麦粉にはこだわらない。蕎麦打ちも習ったことがない。母親が饂飩を打っていたことを思い出し、さらに秋山師匠の「料理は、心をこめて、丁寧に、きれいに」という言葉を信条にして打った。そうすると、四角に延し、厚さは均等に、切りでは均一の細さに、打てたとおっしゃる。驚いた。江戸蕎麦の原点がここにあると思った。麺体の広さ、そして蕎麦八寸、切りべら二十三本は江戸蕎麦職人の標であるが、その前に心をこめて、丁寧に、きれいに」と心しておれば、均等の厚さ、均一の細さになる。谷部先生の基本は、江戸における蕎麦職人誕生の出発点と同じだったろうと確信するところである。
そして、陛下はやや甘めのつゆがお好き。蕎麦切用の器は伊勢神宮20年遷宮の際にいただいた白木の蒸籠のような箱に簾を敷いて100g盛った。お箸は柳箸。陛下は薬味はお使いなられず、蕎麦湯も嗜まれなかったが、お蕎麦は度々お代わりされるほどお好きだっという。
講演終了後の夕食会が「水神苑」で行われた。今度は深大寺の方々もご一緒だったが、谷部先生のお話は結局、一日中陛下のお人柄について語られたのだった。
実は、谷部金次郎先生は聖上陛下が崩御されたとき、四十三歳で退職された。お側の人がそういうお気持になられたところが陛下のお人柄だったように思う。
エッセイスト ほし☆ひかる