食とイベント(3)聖徳太子はお茶を飲んだか?(奈良)8/21

      執筆者:編集部2

これは平城遷都1300年祭の記念行事の一環として開催したシンポジウムのタイトルです。 11年前に私たち数人で設立した「天平茶論」の活動をまとめその成果を報告する会として8月21日、奈良県親公会堂能楽ホールで約500名会場満員の中で開催した。

日本はいつからお茶が飲まれたのだろうか、誰が伝えたのか、など不明な点が多い。
一般的には鎌倉時代、中国の宋から帰国した(1192年)栄西禅師が伝えたとされ、それ以降日本では本格的に茶が普及したとされている。しかし近年平安の初期すでに遣唐使(805年)として中国の唐へわたった僧たち最澄、空海、永忠たちが伝来したとの記録もある。
もっと確かな文献として「日本後記」に(815年)嵯峨天皇に永忠が茶を献じたと記されている。ここまでは証明されているが、今回のテーマはさらに奈良時代、平城宮殿から出土の木簡の文字「荼」(736年)の謎を、さらにもうひと昔100年前600年代の大和時代に飲茶があったのではを探るものである。

この辺の時代になると文献はなく、物証もなく、まして「日本書記」(720年)の内容も本当かどうか疑問もあり、その中の「厩戸皇子(うまやとのみこ)」は「聖徳太子」かどうかも不明。さらに近年「聖徳太子」そのものは存在しなかったという学説もでてきているので、茶の歴史学者はこの辺の時代には近よらないのである。

しかし、この時代には隋へ小野妹子を派遣したり、朝鮮半島から多くの渡来人が来て、海外の風土、習慣、技術、文化など盛んに伝えたりと国際化が盛んに行われていた。特に茶と深い関係のある仏教が当時の国の中心的な役割だった。などから推測すると茶の存在や飲茶の背景が次々と浮かんでくる。この辺を「天平茶論」メンバーはおもしろいと論議してきた。

会はまず伝承料理研究家の奥村彪生先生が万葉の音楽とともに当時の衣装をつけ舞いながら舞台にあがり、当時の貴族の1人長屋王の食生活を紹介した。続いて茶研究の神津朝夫先生の奈良時代の茶の様子を文献資料から読みとり、特に仏教の香水(茶の原点)を興味深く解説。そして天平時代の歴史に詳しい青山茂先生の聖徳太子の謎とその背景を「らくだにのった」という自説でおもしろく時代を表現した。

この前段の演出でパネルディスカッションの下地ができ、いよいよ本題にはいった。
小川流煎茶道の家元の小川後楽先生、実践的お茶研究の第一線者谷本陽蔵先生、植物としての茶樹、栽培などの専門家農学博士寺田孝重先生、そして私がコーディネーターとして話をひきだし、取りまとめ役をおこなった。

シンポジウムはいきなり3人の先生に「聖徳太子はお茶を飲んだ」と思うかどうかと考えを聞き、会場の参加者へも問いかけた。約半分の人が「飲んだ」に賛同した。

話は植物としての茶の話、日本に茶樹が昔からあったのか、飲茶はどうして開発されたのかを中国の歴史や伝説から解説があり、聖徳太子の時代の政治、生活の様子、隋や朝鮮半島からの外国文化の影響へと話しが発展していった。

最後に再び会場へ「飲んだか」の問いを聞いたところ、全員が「飲んだ」と挙手し、会場一体になって盛り上がり終了した。

「天平茶論」はこれからもこのロマンをおいかけ、茶論を追求していく予定。