第574話 大 塚 乱 歩-③
償い
大塚の発祥は地下鉄の茗荷谷駅あたりに大きな塚があったことかららしい。そこを1丁目として文京区内に「大塚」の番地が広がっている。
ところが、後に豊島区に大塚駅ができた。だから「大塚」の名は駅周辺まで拡大した。ただしこちらは豊島区「南大塚」「北大塚」である。
その南大塚に江戸ソバリエ講師の店「大塚長寿庵」がある。元気な女将さんが名物であるが、今は「そばこん」でも有名だ。テレビ・新聞でもとり上げられ、何組もゴールインし、女将さんは結婚式で大忙し。もちろん何組も赤ちゃんが誕生している。
今日も49回目の「そばこん」が開かれた。進行はここで結ばれた先輩たち。彼らも、参加者も、女将さんも熱心に取り組まれる。
この「そばこん」では、話し合っみて、それぞれがお付合いしてみたい方を係に言う。
例えば、AさんがBさんとCさんに魅かれたとする。係は「Bさんは人気で他の人からのも沢山申込まれている。Cさんはあなただけ。ただDさんからあなたにラブコールがきている」ことをAさんに伝える。
Aさんは状況が見えてきたため、再度考えることができる。
①競争が厳しくてもBさんでいくか、②それとも止めてCさんか、③あるいは望まれているDさんか。その上でAさんは、もう一度BさんCさんDさんと話してみて、決定する。
こうして今日は7組のカップルが誕生した。ただしこれはまだ第一歩、これからゴールを目指してお付合いが始まる。
この日は、ゴールイン第一号夫婦と1才の男の児が手伝っていた。1才の児は「そばこん」のシンボルのように人気だった。
話は逸れるが、現在「大塚長寿庵」は女将の息子さんが店主である。その彼と雑談をしていると「うちの子も、この4月から〇〇小学校の一年生です」と言う。「もうそうなの!」、「でも、近くで車のあの大事故があったでしょう」と心配気だ。
そうなのだ。私も池袋に行くときは、あの辺りを歩くから、驚いてニュースを見た。
~ 信号が青になったから、母子の自転車は動き出した。そこへ右側から車が突進して来た ~
ニュースなのに、目の前で31歳の母親と3歳の女の児の犠牲場面を見たように胸が痛かった。
「ああ、動画を巻き戻して!時間を戻して!」とニュースを見た人は皆、そう願ったにちがいない。
そういえば、常々思うことがある。
学校や警察の言う交通教育は間違っている。「交通ルールを守りましょう」ではなく、「車は危険です。車に注意しましょう」と教えるべきである。「交通ルールを守りましょう」は、歩行者に言うべきではなく、運転手に厳しく求めるべきことである。
当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、そんなことはない。
何年か前、上野駅前の交差点でのことであった。
車が左折しようとしてたとき、サイドミラーが歩行者に当たったためその人は怪我をした。
若いおまわりさんがやって来て、二人に事情を訊いた。
そのとき、30代の女性運転手は「テメエが黄色で信号を渡って来たからだろう」と怪我した人に怒鳴った。
すると、おまわりさんは「ほんとうですか?」と傷ついた若い男性の歩行者に向かって尋問を始めた。
私は見ていたので、「違いますよ。青でしたよ」と手助けした。
すると、おまわりさんは方向を変えて今度は運転手を尋問した。
私は情けないと思った。交通ルールを守ったかどうかより、交通ルールは弱者を守るためにつくられたということの方が大事なはずである。
鋼鉄の車と生身の歩行者をルールという同じ土俵に乗せてしまうことは、結局は車優先の考えになってしまう。
こうした車優先の考え方は、街を歩いても多数目撃できる。
電信柱は、車の交通の邪魔にならないように歩道の中に立っている。ガードレールは、接触した車を保護するかのように車道側が丸い形で設置され、歩行者側は危さを露出している。駐車場がある場合、車がスムーズに動くように歩道を斜面にしてある。このため歩行者はビッコ姿で歩かなければならないし、何より車椅子の人は車道に転がらないようなに必死になって車輪を操作しなければならい、と多くの介護人が嘆いている。
目を転じれば、飛行機事故や電機器具の事故が起きた場合、その報道は飛行機や器具名までも公表され、全体的視野から原因が追究される。しかし自動車事故の場合、ほとんどは運転手の不注意として結論付けられる。これが車優先社会の景観である。
「そばこん」が終わった先日、母児が犠牲となった現場を通ったところ、山のように花束が供えられていた。通る老若男女の皆さんが頭を下げて合掌している。なかには涙ぐんで離れない人もいた。
あのとき、「時間を巻き戻して!」と祈っても、この母と児の命は帰ってこない。この世には神も仏もいないからだ。
われわれは絶望する遺族には声もかけられない。合掌して、ご冥福を祈る、しかない。
交通ルールを守ったのに、なぜ天使の年頃といわれる3歳児が犠牲にならなければならないのか。人間を軽視した社会の犠牲としか思えない。ならば、その償いは誰がとるべきだろう!!
若い人たちが結ばれて新しい生命が誕生するとき、人間としてよりよい生活のできる社会であることを願いたい。Better Living as Human
〔平成31年4月30日記 ☆ エッセイスト ほしひかる〕