小学4年で両親を肺結核でなくす(その1)

     

私は現在85歳で、弟姉妹は既にみな他界しています。私は昭和19年6月に父親を、同年10月に母親を肺結核で亡くしましたので、小学校4年生の時に一度に両親を失ったのです。両親は長い間闘病生活をしており、元気だった姿を見た事がありません。父親の葬式には出席せず泣きもせずにどこに隠れていたのか記憶にありません。第2次太平洋戦争が昭和16年12月8日に始まり、学校名も小学校から国民学校に変わったのです。戦争も激しくなり、昭和19年の夏にはB29が毎日東京を空襲していました。そのさ中、私は食料不足に悩まされ、配給される食料は大きな長茄子ばかり食べさせられていたのです。その結果、今でも茄子は食べられません。私は江戸川区にある叔父の工場に祖母と同居していました。その工場に大きな池があり、その池に外来種のエビガニが繁殖していたのです。そのエビガニを生ゴミを入れたザルに仕掛けておきますと一晩で100匹以上も捕れたのです。そのエビガニは簡単に尾が剥がれるのです。それはイセエビの味覚より若干落ちますが、美味しく食べられます。そのエビガニは貪欲で何でも食べるので日本でオーガニック養殖すれば1年で収穫できますので新しいオーガニック食品として事業とても成り立ちます。又、大きな食用ガエルも江戸川区では捕れたのです。食用ガエルは夜になるとグオーという声を出して鳴くので居場所がわかり、針に餌をつければ簡単に釣れます。しかし、エビガニの養殖は既に中国で始まっているそうです。

東京で戦争中育った私は5年生の時に埼玉県の叔父の実家に引き取られ、慣れない辛い農業をやらされたのです。水飲み百姓の家で慣れない畑仕事は厳しいものでした。農繁期には学校に行けず、畑仕事に従事していました。そして、私の大事な仕事は農耕作業をする事と家畜牛に餌を与えることでした。叔父の家は埼玉県と群馬県の県境にある利根川の堤防に隣接していました。毎日、朝食前にその堤防に生えている草を刈って牛に与えるのです。厳しい人で朝が早く少しでも明るくなると起こされて草刈りに行かされました。

私が辛かったのは、東京から戦時中疎開してくる児童を、疎開と言って差別し、虐められたことでした。地元の子供から差別されない方法は早く方言を覚え、疎開っ子と差別されないようにすることでした。幸い、私は農家の叔父に育てられていたので、農作業もできるようになったのです。1年後には農家の子供からバカにされることは無くなくなりました。

私が6年生になり、2年後に日本の学区制が大きく変わりました。それは6年生から2年間は高等学校に行き、それを卒業それば自由に卒業が出来たのです。しかし、それまでの学校教育制度が変り、6年、3年、3年生になったのです。その学区制が変わる時期が通常は3月3日だったのですが、それがその年だけ3月15日に伸びたのです。私は叔父に夜間高校に行きたいと言いましたら、高校の月謝が払えなくなったら何時でも辞めるという条件付きで高校に行ってよいと言われたのです。但し、普通高校ではなく商業高校にしろと言われました。しかし、高校を受験する生徒は2,3年前から居残り勉強をしているのです。

私はその受験準備が出来ずに埼玉県立深谷商業高校を受験しました。私は受験するまで15日間の準備でしたので担任の先生が受験したのを知らかったのです。従って、発表の日に私の名前が無かったので、試験に落ちたと思っていたのです。受験に失敗したと思っていたのでその時に味わった大きな挫折感は85歳になった今でも忘れません。しかし、翌日、合格通書を手にした時の気持ちは天にも昇る気持ちで、学校から自宅までの3kmの距離を走って帰り叔父に報告したのです。

しかし、深谷商業の2年生の時に全校の集団検診があり、800人の生徒のうち2人が結核に罹っていることが判り、私は学校を半年休校しました。その時の担当医中沢先生がストレクトマイシン(1本¥1000)を20本打てば治るといわれたのです。当時の叔父の家計で¥20,000は大きな金額だったのです。その時、私の仕事が家畜牛に餌を与えることでしたので牛が妊娠していることが判った時にはメスの牛が生まれるように神様に祈ったことを覚えています。叔父はその牛の子供がオスだったら¥8,000なので、ストマイ代金は払えないが、メスだったら馬喰が即金で¥50,000払うと言ったので、私はストマイ20本打って命を助けてもらったのです。

私は学校を休学していた時は、結核の治療のとして気胸療法(胸に注射で空気を送り、肺の空洞を潰す方法)を6か月続けていました。その間、将来のことを考え、好きだった英語の勉強をしていました。これが私を支えてくれたのです。復学して最初の授業に英語があり、その効果がハッキリ出たのです。その後は皆私の英語を注目するようになり、私も英語を使う職業に現在携わっています。叔父は私の病状を知っていますので、就職は出来ないと思っていました。只、大学に進むためには高校と違って受験するだけで¥50,000が必要になるのです。

そこで私は国立大学を受験することにしました。目的の大学は一ツ橋大学でしたが受験に失敗し、何年も浪人していることが出来ず悩んでいました。その時に又家畜牛が妊娠していたのです。やはりメスが生まれたらその同じ馬喰が¥50,000で引き取ると言っていたのです。私はさすがに貴重な大金を大学受験のために出して欲しいと言えずにいましたが、叔父は快くその貴重なお金¥50,000を出してくれたのです。