第469話 粋の研究

     

~ 日本の《形》文化論 ~

 義理・恩・道・恥・粋・・・。
今では耳にすることも少なくなったが、これらが近世日本人の生きる規範であった事はまちがいない。
なかでも、「恩」というのは、日本人の気持ならびに行動規範としては小さくない。それはおそらく共感力豊かな日本人がとる「気遣い」から生まれ、有形無形の「お返し」という行動をとるところにあると思う。
しかし、その「恩」は、横の人間関係においては「義理」という形で他律的に縛られるようになり、縦社会においては「武士道」に成長したものの、封建時代に生まれたが故に、他律的な服従・献身の道であったことはまちがいない。
この「道」というのは、そもそもは「歌道」において始まり、書道・華道・香道・茶道などの芸術分野において求められていた。そこに天台僧慈鎮が哲学した「道理」の概念が影響したり、さらには利休が「禅」の思想を取り込んでから、武道・剣道・弓道・柔道などの体育系にまで拡大され、修養に精神論が加わるようになった。さらに、江戸時代になると、そこに幕府が推奨する儒学の考えが入って普遍的原理が採り入れられ、妙に堅苦しくなった感は否めない。ただ、一部ではそのことが格調の高さとして歓迎され、昭和になってからは、相撲道・棋道・麻雀道などと趣味・娯楽の分野へ、果ては色道、クイズ道にまで乱用されると、「乱道」とまで揶揄されるようになった。
一方の「義理」の方は「人情」という言葉と対になって、井原西鶴・近松門左衛門から泉鏡花・尾崎士郎まで大衆文学の重大なテーマとなり、あの夏目漱石でさえ【知に働けば角が立つ,情に棹させば流される意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい】と悩んだほど、生きる規範としては大きな課題であった。
こうして、横世間の人たちも、縦社会の人たちも、義理や道に外れることは「恥」と感じ、そのとき庶民は仲間外れにされたり、武士は名を汚したとして切腹させられた。

ともあれ、上述の義理・恩・道・恥という事は、日本人社会における他律的な規範であったが、江戸中期以降に生まれた「粋」だけは構造がちょっと異なっていた。
その「粋」については、九鬼周造が論理的に研究しているから、ここであらためて述べるまでもないが、九鬼は「粋」を異性に対する媚態から論を始めているところが、本を手にした者がたいてい意外に思うところである。
小生は、幡随院長兵衛の生き方だった「義侠」から「粋」が生まれたのではないかと思っているがそれはともかく、新旧の粋な女性作家である幸田文や山田詠美のような人たちも、「粋」を男の色気としてとらまえているようだ。
幸田は粋に麺類を啜っている男の姿を賛美し、山田は蟹を食べる時の男の姿に惚れ込んでいる。つまり、上品と下品のすれすれの位置で上品さを保っている男の仕草・形を「男らしい美しさ」として迎えている。しかもそれが食という日常的な行為においてという点が、先の義理・恩・道・恥といった道徳観とは次元の異なる世界であった。
この次元の相異について、斎藤正二は次のような解析をしている。
「〈通〉とか〈粋〉とかの架構的=人工的美学が町人階級の間に成立してから、人間が義理や人情の問題に悩むなど野暮の骨頂とせられたのである。この美学は、本質的には幕藩体制や武家道徳への批判というかたちで提示されたものであった。義理および人情の道徳体系の没落は、時代の必然的帰趨であった。」
つまり、「粋」は幕藩体制や武家道徳への批判力をもっているという。そして「時代の必然的帰趨」というのは、明治維新へとつながるとなったというのである。
それ故に私は、他律的な「義理」より、自律的な「粋」こそが江戸町人の真骨頂だと考えるわけである。
ただし、常々言っている通り、ここでいう町人とは「熊さん・八つぁん」的な庶民ではない。最初に文化をリードしてゆくのは上層の知識階級の町人であったことを付け加えておきたい。
さらに後談として、幕藩が崩壊して明治維新が成ったことは、人々の願うところであったはずだが、それはまた権力が交代したにすぎないという面もあった。そこで庶民の間では揺り戻し現象がおきた。それが泉鏡花・尾崎士郎による義理人情モノの流行である。しかしそれもやがて飽きられた。

ともあれ、粋とは、‘自律’の《形》表現の一つ、諌言すれば美学であると考える。
そうであるなら、わが国には第二、第三の‘自律’の形表現、あるいは美学が誕生しなければならない。
たとえば、昭和の高度成長期に、ラフさを伴った「カッコイイ」で人気のあった石原裕次郎らがそれであろう。彼らのいわば「ニュー粋」は高度成長期という時代を動かしていった。
さらに女性の時代といわれる今日、きゃりーぱみゅぱみゅら多数の少女たちによる「カワイイ」文化がJ-POPと共にグローバルに受け入れられている。このカワイイも日本社会が生み出した《形》の文化の一つであると思う。
もしかしたらわが国には、「義侠」や「粋」から「カッコイイ」や「カワイイ」まで、日本には形や所作の美学があるのではないかと思えてくる。
だから、「粋」も日本人の美しい形・仕草として、再認識してみてはいかがだろう。

《追記》
こんな思いをもって、われわれの『江戸ソバリエ認定講座』の初期のテキストでは、「粋とは自律だ」と述べた次第である。

《参考》
*『愚管抄』(岩波文庫)
*源了圓『義理と人情』(中公新書)
*宮本武蔵『五輪書』(岩波文庫)
*新渡戸稲造『武士道』(岩波文庫)
*鑪幹八郎『恥と意地』(現代新書)
*鈴木大拙『禅とは何か』(角川文庫)
*鈴木大拙『禅』(ちくま文庫)
*夏目漱石『草枕』(岩波文庫)
*九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)
*河北倫明 ―「いき」の問題― (現代教養文庫『日本の美術』)
*幸田文『幸田文 台所帖』(平凡社)
*山田詠美「ラバーズ・オンリー」(角川文庫)
*大石静『日本のイキ』(幻冬舎文庫)
*世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫)
*岡倉覚三『茶の本』(岩波文庫)
*斎藤正二「日本人のこころ」(『日本を知る辞典』)

※九鬼周造はパリにおいて、リラの香りに触発され、「いきの構造」の執筆構想を練ったといわれている。

〔文・挿絵(リラの花) ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる